京築地域に関係する宇佐宮領は、一〇郷三荘の上毛郡、本御荘一八ヵ所の津隈荘(行橋市)・角田荘(豊前市)、常見名田は各所に存在していた。以下「宇佐大鏡」や『荘園公領制の成立と内乱』(工藤敬一著、思文閣出版、一九九二)などにより概観する。
〔上毛郡〕
封戸百戸とあり、一郷五〇戸なので二郷分に相当するが郷名は書かれていない。田数二七二町、佃田(つくだ)数一三町五反三〇代(しろ)、用作(ゆうじゃく)田数二〇町三〇代とある。宇佐宮の佃とは、反当たり米七斗五升を納めることを条件に、宮役人が寄作人に耕作させた田である。用作とは宮役人の直営地で、種子と営料分を除いた全収穫が宇佐宮に納入されていた。筑後国守部荘(生葉郡)の例から、反当たり一石二斗と考えられる。
〔津隈荘〕
康平四年(一〇六一)より以前に、京都・仲津の両郡に散在していた宇佐宮の御封田を国の公田と交換し津隈荘として成立。康平四年には荘内に点在していた公田四町六反を、神領御封田五四町九反の内をもって交換し、荘田数七〇町、用作一町九反となったが、荘域内には公田八町二反二一六歩が混在していた。
〔角田荘〕
長元四年(一〇三一)上毛・下毛・田川の三郡に散在していた神領御封田八五町五反二二八歩と交換して成立。康平六年(一〇六三)豊前守義任朝臣が宇佐宮三所の御宝前(一・二・三御殿)で朝廷のために長日法華不断経(ちょうじつほっけふだんきょう)を転読する仏聖灯油料所(ぶっしょうとうゆりょうしょ)として五二町七反九〇歩の田地を寄進し加えた。荘域は東は大堺、南は山、西は上松、北は海を限る範囲内であった。
〔常見名田〕
京都郡は田数不詳、起請田(きしょうでん)八六町五反四〇(三〇カ)代、その内訳は南郷が一一町三反一〇代、北郷が七五町二反二〇代とある。起請田とは宇佐宮に対して、旱損に関係なく一定額の年貢(ねんぐ)・公事(くじ)(雑税)を納入することを請け負った田のことである。
築城郡は田数不詳、起請田四八二町九反四〇代。同郡大野郷は田数二〇三町三反三〇代、起請田は二三〇町三反三〇代。同郡高墓は田数不詳、起請田八八町六反一〇代、後に仲北郷絹富名と交換し国衙領となった。
築城郡伝法寺と築城郡と仲津郡にまたがる城井浦・桑田郷・城井幡野三箇社(広幡社・橘社・赤幡社)がある。伝法寺はもと宇佐宮祝大神宮方(ほうりおおがのみやかた)の所領であったが、天永元年(一一一〇)に宇佐宮仮名(けみょう)(本名を隠し、仮につけた名前)常見御領に売却されたもので、本庄四〇町、加納(荘民が出作して、公田を荘田に加えて取り込むこと)三百余町とある。城井幡野三箇社(いずれも築城町)といわれる広幡社(田一〇町)・橘社(田一一町)・赤幡社(田六町)はもと大宰府領であったが、保安二年(一一二一)に請僧供料(しょうそうくりょう)として宇佐宮に寄進されている。仲東郷城井浦田畠はもと豊前国追捕使(ついぶし)早部(日下部(くさかべ)カ)安恒の私領で、負物代として神領化していたが、安恒の死去後に弟貞恒らが権利を主張して争い、天仁二年(一一〇九)に宇佐大宮司宇佐公順(きんより)が買得し大宰府の下文(くだしぶみ)を得て、同宮の最勝御八講(さいしょうごはっこう)供料庄に寄進したという。仲東郷幡野浦田畠は、葛井宗任の先祖相伝の私領であったが、保安二年(一一二一)に宇佐大宮司公順が買得し、大宰府の下文を得て、多米稲光の仮名として領知していた。
仲西郷(かつては仲津郡西郷)は田数不詳、起請田一二町四反二〇代。仲東郷(かつては仲津郡東郷)は田数不詳、起請田二六町九反。仲北郷(かつては仲津郡北郷)は田数不詳、起請田三七町二反とある。
上毛郡として田数三百余町、起請田一四六町二反、加地子(かじし)(私領主や名主が作人から徴収する収納物)は四反と見える。