田川郡添田町に在る。福岡・大分両県境にまたがる山塊で、南岳(一一九九・六メートル)・北岳(一一九三メートル)・中岳(一一八八・二メートル)を中心に英彦山山系を構成している。安山岩の熔岩(ようがん)台地が風化侵蝕(しんしょく)を受けてメサ(卓状台地)やビュート(円錐形山)を形成して絶壁や奇岩の景観をみせている。『彦山流記(ひこさんるき)』(建保元年=一二一三)によれば、三所権現が三峰に垂迹(すいじゃく)して如意宝珠(にょいほうじゅ)を埋めたとされている。平安時代末期には霊験所として全国的に著名で、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』巻二に「彦の山」と見える。弘仁一三年(八二二)勅願所となり、日子山を改めて彦山となし、霊仙寺と名づけられ、三〇〇〇の学徒を置いて鎮護国家の霊場になったという(『彦山権現霊験記』)。また延喜一九年(九一九)二月豊前守が勅命を奉じて「彦山神」に奉幣(ほうべい)した(『本朝年代記』)のが、修験的彦山神の初見とされている。現在の用字「英彦山」は享保一四年(一七二九)霊元法皇の院宣により、「英」の一字を加えた宸筆(しんぴつ)の神額を掲げて今日に至っている。
北岳と南岳からは以前に経筒が発見されていて、うち一口には永久元年(一一一三)銘がある。一九八三~八四年の発掘調査で、北岳と南岳ではじめて石組石室に銅製積上(つみあげ)式経筒の埋納された状況が明らかにされた。また一九八二年には北岳山頂から銅筒と金銅如来像(統一新羅様式)が発見されたが、銅筒刻銘から永正一三年(一五一六)に再埋納されたことが知られた。北岳・南岳ともに山頂には岩磐が露出していて、その根元に経塚を営造していた。現在までに知られる経筒発見数は次のとおりである。
北岳 銅製積上式経筒二・陶製経筒三(+)
中岳 陶製経筒二七(+)
南岳 銅製有節式経筒三・銅製積上式経筒二~三・陶製経筒一
また『彦山流記』には銅板法華経(ほけきょう)・経筥(きょうばこ)が奉納されたことが記され、その製作には後述する求菩提山の銅板経と共通する関係者が関与していたことがうかがわれる。