求菩提山

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 豊前市南奥に在る標高七八二メートルの熔岩からなる円錐台形の山(ビュート)である。中宮の在る標高六五〇メートルあたりまで赤土でおおわれ、その上に複輝石安山岩質熔岩が露頭している。上宮の在る頂上付近は巨岩累々たる異様な景観を呈している。「辰(たつ)ノ口(くち)」と称される噴気孔が社殿背後の巨岩中にあり、近世まで水蒸気を発していたという。『求菩提山雑記』には多くの伝説的霊能者や僧侶の入山を記録していて、奈良時代にまでさかのぼって山中に石窟霊所が設けられた可能性がある。現在二〇ヵ所以上の修験窟が数えられるが、そのなかには平安時代に成立したものもある。納経と関係するものに康治元年(一一四二)銘銅板経収納経筥が納められた普賢窟(ふげんくつ)や、保延六年(一一四〇)銘銅製経筒が納められた吉祥窟(きっしょうくつ)などがある。納経はいずれも法華経典であり、さらに山中に現存する仏像や岩窟飛天彫画などから、平安時代後半の求菩提山では現世利益(げんせいりやく)的信仰、密教信仰、弥勒下生(みろくげしょう)信仰などの諸信仰が渾然となって流行したと推測される。さらにその底流には原始神道期以来の山岳信仰があった。求菩提山における埋経資料は銅製・陶製経筒、銅板経(三三枚)、銅製経筥など質・量ともに注目される。紀年銘あるものも少くなく、保延六年(一一四〇)から久安六年(一一五〇)に及んでいる。銅板経には康治元年(一一四二)の紀年銘がある。一九七五~七七年の三ヵ年にわたり上宮地区で経塚群の発掘調査が行われて経塚遺構の実態が明らかになった。すなわち上宮地区四ヵ所、中宮地区一ヵ所、護摩場(ごまば)地区一ヵ所で計一六口の銅製・陶製経筒が発見された。従前からの発見品も含めて多くは上宮社周辺の巨岩群根元に集中している。埋納状態が明らかな経塚には単独経塚と複合経塚の二者がある。そしてさらに詳細にみれば次のようである。
 
I 単独経塚
 A 小石室を構えたなかに埋納するもの。
 B 素掘土壙に直納するもの。
Ⅱ 複合経塚
 A 同一壙内に複数の経筒を埋納するもの。
 B 単独経塚数基を一定方式にしたがって同時に配置営造するもの。
 
 このうちI-A・B、Ⅱ-Aタイプはこれまで各地の経塚でもみられるが、Ⅱ-Bタイプは末法思想に拠って地中埋納されたというにとどまらず、あわせて別の宗教儀礼的意図も働いていたことがうかがわれる。ここに山岳信仰とも結びついた特殊性があったと思われる。
 求菩提納経のもう一つの特色は、地上の岩窟納経が行われている点である。普賢窟では銅板経三三枚と銅筥が、また吉祥窟絶壁の亀裂部からは保延六年(一一四〇)銘銅経筒が発見された。岩窟が陰陽思想を導入して金胎両部を男女に想定する修験思想に従えば、この両窟は陰窟に比定されていて、生命再生の修験観と弥勒下生の仏教観を習合させる思考方式によって説明されるのである。銅板経の表裏には法華経八巻、つづいて梵文般若心経(ぼんぶんはんにゃしんぎょう)が刻まれている。また銅筥表四面の大板二枚には各々弥陀(みだ)三尊と釈迦・薬師二尊、側板二枚には各々不動明王と毘沙(びしゃ)門天が刻まれている。このような尊像群構成は、これと前後する豊後磨崖石仏などにも認められるので、豊前・豊後地方に流行した信仰であったと思われる。またこのような群像構成は公式的な仏教儀軌(ぎき)にはあてはまらず、大勧進僧頼巖(らいげん)によって発案された天台密教の系譜に修験法を加えたものであった。上述したⅡ-Bタイプの経塚などはこのような思考方式にかかわる儀礼のもとに営造されたものであろう。
 求菩提山から発見されている経筒は、現在まで知られているものは数十口に及び、銅製・鉄製・陶製の別がある。紀年銘ある銅製品は保延六年(一一四〇)から久安六年(一一五〇)に及ぶが、なかでも笠蓋(かさぶた)円筒式の小型経筒(総高二一センチ・胴径五センチ弱)は共通した形態のもので最も多く、ほかに類品をみないので“求菩提型経筒”の名称で認識されている。近年犀川町宮田遺跡発見の土製鋳型(いがた)片はその関係遺物として注目される。
 
写真38 求菩提山頂上宮付近の巨岩群
写真38 求菩提山頂上宮付近の巨岩群