わが国では平安時代になって埋経の風が始まった。末法到来の初年は永承七年(一〇五二)と考えられた。世は貴族社会の衰退(すいたい)と武家社会の興起(こうき)する動向のなかで、次第に世情不安は増大してゆき、貴族たちは末法到来の実感をつのらせていった。
わが国最古の経塚として知られているのは、時の左大臣藤原道長が発願して寛弘四年(一〇〇七)八月、奈良県吉野郡の金峯山(きんぶせん)山頂に営造した経塚である。自身の書写した諳経典を銅篋(どうはこ)に納めて埋め、その上に金銅燈楼(とうろう)を立て、弥勒下生の法席に列することを期待する趣旨(しゅし)を記している。また阿弥陀如来(あみだにょらい)を信奉して極楽世界に往生せんことを願い、埋納経典を「法身之舎利」と称して釈迦の舎利(遺骨)に代わるべきものとして、この埋経場所を弥勒菩薩が下生説法する庭(會座)に見立て、法華経にいう地中から宝塔が涌出することを構想した。したがって埋経の内容も法華経八巻・同開結各一巻のほか、阿弥陀経・弥勒上生・下生・成仏(じょうぶつ)経・般若心(はんにゃしん)経各一巻を加えた計一五巻からなっていた。道長の埋経業思想には末法思想を本願とする弥勒下生信仰だけでなく、極楽往生(ごくらくおうじょう)を願う現実的信仰も強く、加えてわが国固有の伝統的山岳信仰との融合(ゆうごう)的思考も内在していたことがうかがわれる。
わが国で発掘された経筒例はかなりの数にのぼるが、紀年銘を有するものについてみると一一世紀後半代にはまだ全国的にも二〇余例ほどであるが、そのうちの半数ほどが北部九州での発見であることは注目される。その初出は治暦二年(一〇六六)である。銘文から知られる埋経の意趣は、末法思想による弥勒出世の時に備える場合。僧侶の仏道修業の手段としての写経業の成果を埋納する場合。自身や父母のための供養業の場合などである。