わが国の経塚分布上からみて北部九州は一大中心地域をなしている。九州最古の紀年銘ある経塚は治暦二年(一〇六六)の佐賀県岩倉山経塚であるが、わが国最古の奈良県金峯山経塚より約半世紀余り後出する。北部九州でも一一世紀中頃には埋経の風が始まったことが知られるが、流行期は一二世紀前半代にあったようである。なかでも紀年銘ある経筒の出土例は一一一一年から五〇年の四〇年間が最も多い。その出土地は福岡県下が最も多く、大宰府政庁の背後にある四王寺山周辺への集中度は注目される。大宰府官人層の関与が大きかったことを示唆(しさ)している。この時期の埋経目的には亡き父母の供養業が多くなるが、新たに古代山岳信仰(原始神道)と仏教を習合させた原始修験経塚ともいうべきものが登場する。さらに近年では佐賀県脊振(せぶり)山頂経塚群に代表されるような、火葬墓群と共伴する埋経業も認められている。
経塚内部の調査例によれば地山を素掘りした竪坑(たてこう)内に経筒を収め、上部に石蓋(ぶた)を被せて石塊を積んだ簡単なものから、石組の小石室を設けて経筒を収めるもの。さらには経筒を陶製や石製の外筒に納めたり、大甕を倒置(とうち)して経筒に被せるなどの丁重な方法のものまである。また防湿(ぼうしつ)のために空所を木炭や灰で埋める場合もある。