行橋市域における経塚の発見は、市内長井から大治二年(一一二七)一〇月一五日銘の六角形銅製品の発見が伝えられている。隣接する京都郡勝山町松田経塚ではそれぞれ銅製経筒を埋納した二基が発見され、その一号経塚では中国宋代の褐紬(かつゆう)四耳壺を外筒として被せた状態が知られた。経筒身には「女壇主[宗]形氏」が願主となり、二名の勧進(かんじん)僧のもとに大治二年(一一二七)九月一九日、当地(「東南郷霜田補」)で「如法妙法蓮華経[一部/八巻]」を「供養」したことが記されている。また築上郡築城(ついき)町丸山経塚では長胴陶製外筒を伴って、六角形蓋有節経筒が発見された。経筒内に残っていた墨書紙本経の奥書きに、天治年中(一一二四~二六)僧侶某が自身の極楽往生・衆生の平等利益のためを期して、「如法経一部八巻」を書写供養したことを記している。陶製外筒は現存しない。さらに京都郡苅田町等覚寺の山中に在る白山多賀神社の社殿後背地に営造された経塚から三本の銅製経筒が発見された。その一本には寛治八年(一〇九四)の紀年銘があったが現存せず、現存の二本は無銘である。
このほか豊前市求菩提山や田川郡添田町英彦山などからも、近年までの発掘調査などによって経筒(銅製・陶製)や銅板経(経筥とも)が発見されている。これらは原始修験信仰に関係する特別な性格のものであり、別項(山岳信仰)で述べているので省略する。