●第五章参考文献

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▼第一節 律令国家の展開と豊前地域
 一 大宰府の成立
(1)長洋一「大宰府成立前史」『古代を考える 大宰府』吉川弘文館、一九八七
(2)倉住靖彦『古代の大宰府』吉川弘文館、一九八五
(3)石松好雄「大宰府発掘」『古代を考える 大宰府』吉川弘文館、一九八七
(4)岸俊男「都城と律令国家」『岩波講座・日本歴史・古代2』岩波書店、一九七五
(5)倉住靖彦『大宰府』教育社、一九七九
(6)石井正敏「大宰府および縁海国司の外交文書調査権」『古代文化』第四三巻第一〇号、一九九一
(7)井上光貞「日本律令の成立とその注釈書」『律令』岩波書店、一九七六の解説
 
 二 地方行政組織について
池邊彌『和名類聚抄郡郷里駅名考證』吉川弘文館、一九八一
『角川 日本地名大辞典 四〇 福岡県』角川書店、一九八八
京都大学文学部国語学国文学研究室編『諸本集成 倭名類聚抄(外編)』臨川書店、一九九四
 
 三 大隅国成立と豊前地方からの移住
(1)井上辰雄『隼人と大和政権』学生社、一九七四
(2)井上辰雄『火の国』学生社、一九七〇
(3)中村明蔵『新訂 隼人の研究』丸山学芸図書、一九九三
(4)中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、一九九三
(5)新版『古代の日本③ 九州・沖縄』角川書店、一九九一
(6)瓜生秀文「古代の御笠-筑前国御笠郡一帯への移住について」『筑紫野市史』資料編(上)考古資料、二〇〇一
 
 四 大宝二年豊前国戸籍断簡
(1)杉本一樹「No.四四〇 正倉院の古文書」『日本の美術1』至文堂、二〇〇三
(2)佐々木恵介「国家と農民」、黛弘道編『古文書の語る日本史』1、筑摩書房、一九九〇
(3)沢田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』柏書房、一九七二
(4)中村明蔵『新訂 隼人の研究』丸山学芸図書、一九九三
(5)井上辰雄『火の国』学生社、一九七〇
(6)南部曻『日本古代戸籍の研究』吉川弘文館、一九九二
 
 五 国府と郡家~七 京都・仲津郡の条里
(1)金田章裕「国府の形態と構造について」『国立歴史民俗博物館研究報告』六三、一九九五
(2)平野邦雄「豊前の条里と国府-古代政治勢力の所在をめぐって」『九州工業大学研究報告(人文社会科学)』六、一九五八
(3)木下良「豊前国府址についての一考察」『美夜古文化』一八、一九六七
(4)戸祭由美夫「豊前国府考」、藤岡謙二郎教授退官記念事業会編『歴史地理研究と都市研究 上』大明堂、一九七八
(5)『幸木遺跡-唐・五代陶磁器出土発掘調査報告』豊津町教育委員会、一九七六
(6)豊津町史編纂委員会編『豊津町史 上巻』豊津町、一九九八
(7)木下良『国府-その変遷を主にして』教育社、一九八八
(8)『肥前国庁跡-遺構編』大和町教育委員会、二〇〇〇
(9)山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、一九九四
(10)久留米市史編さん委員会編『久留米市史 第一二巻 資料編(考古)』久留米市、一九八四
(11)前掲(8)
(12)『寺崎遺跡-日向国庁を含む官衙遺跡』宮崎県教育委員会、二〇〇一
(13)日野尚志「豊前国の郡家について」『佐賀大学教育学部研究論文集 第三七集 第一号(Ⅰ)』一九八九
(14)『寄原遺跡・長者原遺跡』福岡県教育委員会、二〇〇〇
(15)『崎野遺跡』行橋市教育委員会、二〇〇一
(16)青木和夫『古代豪族』小学館、一九七四
(17)平川南『漆紙文書の研究』吉川弘文館、一九八九
(18)前掲(9)
(19)前掲(13)
(20)前掲(4)
(21)三谷栄一『日本文学の民俗学的研究』有精堂、一九六〇
(22)千田稔『埋もれた港』学生社、一九七四
(23)高重進「律令制的国郡津制の成立と崩壊」『岡山史学』一八、一九六六
(24)渡邉重春『豊前志』二豊文献刊行会、朋文堂、一九三一
(25)高橋誠一「豊前京都平野と神籠石」、藤岡謙二郎編『地形図に歴史を読む 第二集』大明堂、一九七〇
(26)日野尚志「豊前国京都・仲津・築城・上毛四郡における条里について」『佐賀大学教育学部研究論文集』二二、一九七四
(27)前掲(22)
(28)前掲(26)
(29)伊藤常足編『太宰管内志 中巻』日本歴史地理学会、一九〇九
(30)『農林漁業用揮発油税財源身替農免農道関係 埋蔵文化財調査報告』福岡県教育委員会、二〇〇〇
(31)前掲(4)
(32)足利健亮「序説(二)-駅制および駅路概観」、藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅰ』大明堂、一九七八
(33)木下良「古代官道と条里制」、香春町史編纂委員会編『香春町史 上巻』香春町、二〇〇一
(34)『角川日本地名大辞典 四〇 福岡県』角川書店、一九九一
(35)中村太一『日本の古代道路を探す』平凡社、二〇〇〇
(36)足利健亮「序説(二)-駅制および駅路概観」、藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅰ』大明堂、一九七八
(37)木本雅康「西海道における古代官道研究史-歴史地理学の立場から」『古代交通研究』一二、二〇〇三
(38)吉田東伍『大日本地名辞書 第二冊下』冨山房、一九〇一
(39)大槻如電『駅路通 下巻』六合館、一九一五
(40)木下良「西海道の古代官道について」、九州歴史資料館編『大宰府古文化論叢 上巻』吉川弘文館、一九八三
(41)木下良「古代官道と条里制」、香春町史編纂委員会編『香春町史 上巻』香春町、二〇〇一
(42)前掲(41)
(43)中野幡能「『豊前国風土記』の香春岳と鏡山」、香春町史編纂委員会編『香春町史 上巻』香春町、二〇〇一
(44)小田富士雄「菩提廃寺」、九州歴史資料館編『九州古瓦図録』柏書房、一九八一/『菩提廃寺』勝山町教育委員会、一九八七
(45)木下良「空中写真に認められる想定駅路」『びぞん』六四、一九七六
(46)日野尚志「豊前国の郡家について」『佐賀大学教育学部研究論文集』三七-一(Ⅰ)、一九八九
(47)前掲(40)
(48)『天生田大池遺跡』福岡県教育委員会、一九九九
(49)渡邉重春『豊前志』二豊文献刊行会、朋文堂、一九三一
(50)前掲(48)
(51)日野尚志「豊前国京都・仲津・築城・上毛四郡における条里について」『佐賀大学教育学部研究論文集』二二、一九七四
(52)木本雅康「古代の駅家と巨人伝説」『本郷』三三、二〇〇一
(53)木下良「西海道の古代交通」『古代交通研究』一二、二〇〇三
(54)木本雅康「古代の官道」『長崎街道-長崎県歴史の道(長崎街道)調査事業報告書』長崎県教育委員会、二〇〇〇
(55)『甲塚方墳』豊津町教育委員会、一九九四
(56)木下良「上野・下野両国と武蔵国における古代東山道駅伝路の再検討」『栃木史学』四、一九九〇
(57)前掲(51)
(58)『呰見樋ノ口遺跡』豊津町教育委員会、二〇〇〇
(59)前掲(51)
(60)木下良「古代官道」『椎田町史』椎田町に発表予定
(61)戸祭由美夫「豊前国府考」、藤岡謙二郎教授退官記念事業会編『歴史地理研究と都市研究 上』大明堂、一九七八
(62)前掲(51)
(63)前掲(61)
(64)前掲(45)
(65)『谷遺跡調査報告書』苅田町教育委員会、一九九〇
(66)『苅田町の文化遺産』苅田町教育委員会、二〇〇二
(67)戸祭由美夫「豊前国」、藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅳ』大明堂、一九七八
(68)前掲(51)
(69)飛野博文「雨窪遺跡群」『福岡県埋蔵文化財調査年報-平成一三年度』福岡県教育委員会、二〇〇三
(70)日野尚志「豊前国企救郡の駅路について」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』五-二、二〇〇一
(71)前掲(51)
(72)『寄原遺跡・長者原遺跡』福岡県教育委員会、二〇〇〇
(73)前掲(53)
(74)日野尚志「豊前国田河・企救・下毛・宇佐四郡における条里について」『佐賀大学教育学部研究論文集』二五(Ⅰ)、一九七七
(75)前掲(41)
(76)木下良『道と駅』大巧社、一九九八
(77)前掲(53)
(78)木下良「『国府と駅家』再考-坂本太郎博士説の再検討」『國學院大學紀要』三〇、一九九二
(79)豊津町史編纂委員会『豊津町史 上巻』豊津町、一九九八
(80)木下良「古代官道の軍用的性格-通過地形の考察から」『社会科学』四七、一九九一
(81)鶴嶋俊彦「肥後国北部の古代官道」『古代交通研究』七、一九九七
(82)前掲(47)
(83)前掲(40)
(84)前掲(36)
(85)前掲(41)
(86)前掲(46)
(87)前掲(61)
(88)『下伊田遺跡群』田川市教育委員会、一九八八
(89)前掲(46)
(90)前掲(41)
(91)鈴木景二「地方交通の諸相」『古代交通研究』八、一九九八
(92)倉住靖彦「大宰府続命院の設置」『九州歴史資料館研究論集』一一、一九八六
(93)西別府元日「続命院の創置とその経済的基盤」『史學研究』二二七、二〇〇〇
(94)『木山廃寺』犀川町教育委員会、一九七五
(95)「花熊遺跡群公開説明用資料」犀川町教育委員会、一九九四
(96)小田富士雄「福六瓦窯跡」、九州歴史資料館編『九州古瓦図録』柏書房、一九八一
(97)前掲(41)
(98)金田章裕『条里と村落の歴史地理学研究』大明堂、一九八五
(99)金田章裕『古代景観史の探求』吉川弘文館、二〇〇二
(100)日野尚志「豊前国京都・仲津・築城・上毛四郡における条里について」『佐賀大学教育学部研究論文集』二二、一九七四
(101)木下良「空中写真に認められる想定駅路」『びぞん』六四、一九七六
(102)日野尚志「豊前国の郡家について」『佐賀大学教育学部研究論文集』三七-一(Ⅰ)、一九八九
(103)前掲(100)
(104)前掲(102)
(105)前掲(100)
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▼第二節 御所ヶ谷神籠石と七世紀の国防
森公章『「白村江」以後』講談社、一九九八
森公章「倭国から日本へ」『日本の時代史』三、吉川弘文館、二〇〇二
遠山美都男『白村江』講談社、一九九七
小田富士雄「日本の朝鮮式山城の調査と成果」『古文化談叢』第四四集、二〇〇〇
村上幸雄・乗岡実『鬼の城と大廻り小廻り』一九九九
向井一雄「古代山城研究の動向と課題」『溝漊』第九・一〇合併号、二〇〇一
渡辺正気「神籠石の築造年代」『考古学叢考』中巻、一九八八
小川秀樹「豊前中津城石垣にみえる神籠石石材について」『溝漊』第九・一〇合併号、二〇〇一
行橋市教育委員会『史跡 御所ヶ谷神籠石』一九九八
大平村教育委員会『唐原神籠石Ⅰ』二〇〇三
倉住靖彦「いわゆる長門城について」『山口県史研究』第二号、一九九四
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▼第三節 花開く仏教文化
 一 渡来系氏族の活躍
(1)関晃『帰化人』至文堂、一九六六
(2)
(3)加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、一九九八
(4)渡辺正気『日本の古代遺跡・三四・福岡県』保育社、一九八七
(5)北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室編『下徳力遺跡』一九八九
(6)中村修身「古代銅生産に関する一考察」『地域相研究』一三号、一九八三
(7)中村明蔵『新訂 隼人の研究』丸山学芸図書、一九九三
(8)『続日本紀』和銅六年四月乙未条
(9)『続日本紀』和銅七年三月壬寅条
 
 二 椿市廃寺と豊前の初期寺院跡
岡本東三『古代寺院の成立と展開』山川出版社、二〇〇二
小田富士雄「九州の初期寺院跡」『九州考古学研究 歴史時代各論篇』学生社、一九八八
鬼頭清明「仏教の受容と伽藍の創建」『季刊考古学』第三四号、一九九一
亀田修一「豊前の古代寺院跡」『東アジアの考古と歴史』下、一九八七
須田勉「造寺のひろがり」『季刊考古学』第三四号、一九九一
亀田修一「九州の古墳と寺院」『季刊考古学』第六〇号、一九九七
九州歴史資料館『九州古瓦図録』柏書房、一九八一
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▼第四節 律令体制の変容
 一 藤原広嗣の乱と豊前の動向
(1)『続日本紀』天平一二年八月二九日条
(2)『続日本紀』天平一三年正月二二日条
(3)延暦二一年一二月某日の太政官符(三代格)には次のような天平一一年五月二五日付の兵部省符を引用している。「兵部省去天平一一年五月二五日符 被太政官符、奉勅、諸国兵士、皆悉暫停。但三関幷陸奥出羽越後長門幷大宰管内諸国等兵士、依常勿改」。この記述のなかに「諸国兵士、皆悉暫停」とあることから天平一一年五月二五日に「三関幷陸奥出羽越後長門幷大宰管内諸国」を除いた地域の律令軍団が停廃されたことがわかる。
(4)『続日本紀』天平一二年九月三日条
(5)八木充「藤原広嗣の叛乱」『山口大学文学会志』第一一巻第二号、一九六〇
(6)天平一一年五月条(三代格七)には「諸国郡司不善、不得在終身之任」とあり、不善郡司の譜第制停止が勅されている。
(7)八木充「藤原広嗣の叛乱」(『山口大学文学会志』第一一巻第二号、一九六〇年)。なお、天平一七年六月五日に「大宰府」が復置される(『続日本紀』)。この背後には乱後の処置が効果をあげたと考えられる。また、豪族対策も天平一七年を契機にしだいに緩和されてきたと考えられている。
(8)平野邦雄「豊前の条里と国府-古代政治勢力の所在をめぐって」、九州工業大学研究報告〈人文・社会科学〉六、一九五八/横田健一「天平一二年藤原広嗣の乱の一考察」『律令国家の基礎構造』大阪歴史史学会編、一九六〇
(9)竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」『古代の日本3 九州』角川書店、一九七〇/野田嶺志「日本律令軍制の特質」『日本史研究』76、一九六五
(10)天平一〇年の『周防国正税帳』(正倉院文書)
(11)『日本書紀』天智天皇三年是歳条
(12)『続日本紀』天平二年九月二八日条
(13)田中正日子「大宰府の内外問題と兵制の動向」『北部九州の古代史』有明文化を考える会編、名著出版、一九九二
(14)『続日本紀』天平九年九月二二日条
(15)天平一〇年の『周防国正税帳』(正倉院文書)
(16)『和名抄』肥前国佐嘉郡条。なお、「東急本」・「伊勢本」には「防所郷」の記述はなく、「流布刊本」のみ「防所郷」の記述が認められる。
(17)大宰大弐であった吉備真備は天平宝字三年三月二四日(『続日本紀』)に大宰府辺戍の不安四ヵ条を中央政府へ奏上する。そのなかで第二条と第三条は「防人」に関するものであった。第二条は天平宝字元年八月二七日の勅による「東国防人」の廃止による防衛上の不安。第三条は天平宝字元年八月二七日の勅により廃止された「東国防人」のかわりに新しく差し遣わされた西海道出身の兵士からなる「防人」を当時築城していた「怡土城」築城に従事させたいという吉備真備の訴えであった。特に第三条については『軍防令』の規定にないことから大宰府の役人の反対を押し切ってまでもあえてしている。天平宝字元年八月二七日の勅により「東国防人」は廃止されるものの、その代わりに天平宝字二年には西海道出身の兵士からなる「防人」が大宰府に配置されている。それにもかかわらず、吉備真備は第二条で「東国防人」の不在による防衛上の不安を訴え、また「東国防人」の復活をのぞみ、その一方、第三条で西海道出身の兵士からなる「防人」を最前線に配置せず「怡土城」築城に従事させようとした。このことから吉備真備も筑紫防衛のためには「東国防人」が必要であるという認識を持っていたことがうかがわれる。
(18)『続日本紀』天平一八年六月一八日条
(19)長洋一「天平宝字五年の肥前国」『西南学院大学国際文化論集』1-6、一九八六
(20)『類従三代格』承和二年八月一五日の格に引用する天平一七年一〇月一二日の騰勅符
(21)『続日本紀』天平一七年一一月二日条
(22)長洋一「藤原広嗣の怨霊 覚書」『歴史評論』四一七、一九八五
(23)『続日本紀』天平一八年六月一八日条
(24)秋本吉朗『風土記の研究』の「風土記の成立」のⅡの一の(三)「九州及び常陸国風土記の編述年代」、(四)「藤原宇合の風土記編述関与」ミネルヴァ書房、一九六三
(25)上田正昭「風土記の世界」、上田正昭編『風土記』社会思想社、一九七五
(26)長洋一「天平宝字五年の肥前国」『西南学院大学国文化論集』1-6、一九八六
 
 二 律令社会の動揺
(1)川添昭二『九州の中世世界』海鳥社、一九九四
(2)石井進「大宰府機構の変質と鎮西奉行の成立」『史学雑誌』六八一一、一九五九、のち『日本中世国家史の研究』所収
(3)竹内理三編『土地制度史Ⅰ』体系日本史叢書6、山川出版社、一九七三
(4)藤野秀子「大宰府府官大蔵氏の研究」『九州史学』第五三・五四合併号、一九七四
 
 三 藤原純友の乱
(1)元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、一九九四
(2)藤野秀子「大宰府府官大蔵氏の研究」『九州史学』第五三・五四合併号、一九七四
(3)長沼賢海『日本の海賊』至文堂、一九五五
(4)木下良「西海道の古代交通」『古代交通研究』第一二号、八木書店、二〇〇三
(5)原田嘉朗編『穂波町誌』穂波町発行、一九六九
  深町純亮監修『穂波町ものがたり』『穂波町ものがたり』編集委員会編、一九九五
 
 四 刀伊の入寇
(1)福田豊彦編『中世を考える いくさ』吉川弘文館、一九九三
(2)『扶桑略記』天慶三年一一月条に引用している純友追討記
(3)元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、一九九四
(4)藤野秀子「大宰府府官大蔵氏の研究」『九州史学』五三・五四合併号、一九七四
(5)刀伊の襲来が肥前国松浦郡に及んだとき、郡内の兵士を組織化して撃退していることから「武士団」の棟梁としての資格を備えていたと考える。
(6)竹内理三編『長崎県史』吉川弘文館、一九八〇
(7)貝原益軒『続筑前国風土記』志摩郡条、一七一〇
(8)『朝野群載』寛仁三年(一〇一九)四月一六日の大宰府解
   なお、「先是分遣精兵、豫令相待」の部分について、日野尚志氏は「一一日未明早良郡から志麻郡船越津に精兵を分遣したのは新しくくる刀伊賊に備えるのではなく、刀伊賊が福岡湾から帰路に寄らないようにしたのであろう。糸島水道が通過できるとしたら、怡土郡の防衛も必要になる。怡土郡のことがしるされていないのは、糸島水道が殆ど閉鎖(又は閉鎖)されているために、刀伊賊の船ではすでに通過することができないことを判断したために、志麻郡の要所を防衛したのではなかろうか」と解釈している。
 日野尚志「筑前国怡土・志麻郡における古代の歴史地理学的研究」佐賀大学教育学部研究論文集・第二〇集、一九七二
(9)『続日本紀』天平八年二月二八日条および『続日本紀』天平八年四月一七日条
   なお、『万葉集』巻一五には「引津」から「肥前国松浦郡狛島亭」→「壱岐」→「対馬島」→朝鮮半島へと渡ったことが記述されている。
(10)『延喜式』巻一〇・神祇一〇・神名下・筑前国条
(11)『志登支石墓群』埋蔵文化財発掘調査報告書・第四、文化財保護委員会、一九五六
(12)『志登遺跡群・B地点』前原町教育委員会、一九八四
(13)『昭和57年度埋蔵文化財発掘調査概要』前原町教育委員会、一九八三/『志登遺跡群』前原町教育委員会、一九八五
(14)下山正一・佐藤喜男・野井英明「糸島低地帯の完新統および貝化石集団」『九州大学理学部研究報告地質学・第14巻第4号』一九八六
(15)刀伊の入冦に関する史料に見える「渡海の禁」(渡海制)の成立およびその意義については榎本淳一氏の研究が詳しい。
   榎本淳一「『小右記』に見える「渡海制」について」『摂関時代と古記録』山中裕編、吉川弘文館、一九九一
(16)秋本吉朗『風土記の研究』のⅡの一の(三)「九州及び常陸国風土記の編述年代」ミネルヴァ書房、一九六三
(17)『続日本紀』天平四年八月一七日条
(18)秋本吉朗『風土記の研究』のⅡの一の(四)「藤原宇合の風土記編述関与」ミネルヴァ書房、一九六三
(19)長洋一「天平宝字五年の肥前国」『西南学院大学国際文化論集』1-6、一九八六
(20)長洋一「天平宝字五年の肥前国」『西南学院大学国際文化論集』1-6、一九八六
(21)『日本書紀』天智三年是歳条
   なお、「防人」は大化改新の詔に初見するが、その史料としての信憑性を考えると、この制度が実際に制度化され、充実していくのは、天智三年(六六四)の白村江の敗戦後と考えられる。
(22)『日本書紀』天智六年一一月条
(23)山内晋次「古代における渡海禁制の再検討」『待兼山論叢』史学篇二二、一九八八
(24)榎本淳一「『小右記』に見える「渡海制」について」、山中裕編『摂関時代と古記録』吉川弘文館、一九九一
 
 五 平安期の軍事体制
(1)井上満朗『平安時代軍事制度の研究』吉川弘文館、一九八〇
(2)井上満朗『平安時代軍事制度の研究』吉川弘文館、一九八〇
 田中正日子「大宰府の内外問題と兵制の動向」『北部九州の古代史』有明文化を考える会編、一九九二
(3)田中正日子「大宰府の内外問題と兵制の動向」『北部九州の古代史』有明文化を考える会編、一九九二
(4)高橋崇『古代東北と柵戸』吉川弘文館、一九九六
(5)石井進「中世成立期軍制研究の一視点」『史学雑誌』七八-一二、一九六九/戸田芳実「国衙軍制の形成過程」日本史研究会史料部会編『中世の権力と民衆』創元社、一九七〇/下向井龍彦「王朝国家国衙軍制の構造と展開」『史学研究』一五一、一九八一/下向井龍彦「国衙軍制」『古代史研究の最前線』2、雄山閣、一九八六
    *
▼第五節 人々のくらしと産業
高木市之助ほか校注『万葉集二~日本古典文学大系5』岩波書店、一九五九
鬼頭清明『古代の村-古代日本を発掘する6』一九八五
金子裕之『木簡は語る 歴史発掘12』講談社、一九九六
高島正人「大宝二年豊前国戸籍の分析-奈良時代における家族構成の戸別的研究(二)」『立正大学文学部論叢第二十号』立正大学、一九六四
香春町『香春町史』二〇〇一
河上邦彦『飛鳥を掘る』講談社(講談社選書メチエ258)、二〇〇三