総説

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 豊前国府(豊津町)は古代中世における豊前の政治の中心であった。国府は祓川流域にあるが海を持たない。国府は海を祓川下流ないし今川下流の河口に求めた。今井津・大橋津である。国府津といってよいだろう。国府下流域にあたる京都(みやこ)平野(行橋市域)は流通経済・交通、そして軍事の中心となった。
 河口には京都平野を流れてきたいくつもの川が集まっている。祓川、今川、長峡川(ながおがわ)である。長峡川の河口北岸に行事(ぎょうじ)があった。南岸に大橋が立地した。大橋は南に今川にも面していた。今井、大橋、行事は流通経済の中心であり、富や利権が集中した。人々が多く集まり、文化も発展し、また軍事の中心でもあった。
 古代国家が御所ヶ谷神籠石(こうごいし)を京都平野後方の山に築いた事情に、すでにこうした京都平野の地理的・政治的特色が見られる。神籠石は豊前の周防灘沿岸には二カ所が確認されている。天智二年(六六三)、日本は白村江(はくすきのえ)で唐(とう)・新羅(しらぎ)との戦いに敗れた。その後、反撃してくるであろう唐の侵攻を恐れて、各地に朝鮮式の逃げ込み城を作ったと考えられる。神籠石(朝鮮式山城)の分布を見ると、玄界灘に面しては四、有明海に面しては七、周防灘に面しては九州側に二、本州側に一、ほか瀬戸内海に五カ所が確認されている。外国勢力が攻めてくる場合に想定される侵入経路に、官人や地方豪族・兵士・民衆の逃げ込み城を造った。周防灘沿岸が占拠される可能性があって、異国の作戦に対抗できる防御施設を造っておく必要があった。確認された豊前の二つの神籠石は立地が類似しており、唐原(とうばる)古代山城(神籠石)が山国川流域、御所ヶ谷神籠石が今川流域に築かれた。
 御所ヶ谷の場合、東方、のちの豊前国府域の防衛が念頭にあったが、もう一つ今川河口の港の防衛もあった。これは唐原神籠石が山国川河口・中津防衛を意識していたことに対応する。唐・新羅が飛鳥・平城京を目指し進攻する場合のルート上に京都平野や中津平野、それぞれの河口の港湾があって、その防衛拠点を設営する必要があった。
 こうした港湾はそのまま平時の交流の道、交易の道に重なっている。九州と都(平城京・平安京)を結ぶ幹線上に位置する重要港湾があり、その後方の軍事支配が港湾支配に直結していた。
 御所ヶ谷神籠石の東に隣接して馬ヶ岳があり、中世になるとその頂には馬ヶ岳城が築かれた。地理的重要性は歴史的にも踏襲される。馬ヶ岳は南北朝期以降、京都平野・行橋地域の支配の上で、重要な役割をはたした。河口にあたる蓑島や沓尾での合戦終了後に、再度、馬ヶ岳にて合戦が行われることがしばしばあった。港を掌握するためには、馬ヶ岳も掌握する必要があった。
 豊前国府が山陽道・筑紫道が通過する規矩郡(企救郡)の門司、小倉ではなく、京都平野・祓川流域、仲津郡に置かれたのはなぜだろうか。九州管国は朝廷と直結する体制ではなかった。管内諸国からの上申、諸国への下達は、かならず大宰府を経由することと定められていた。律令国家は大宰府から管九国二島への伝達ルートを重要視した。大宰府から東九州、豊後国府・日向国府への伝達路は、最短路である豊前・仲津郡を通過する必要があり、そうした政治的また交通上の理由が国府の立地を決めた。
 この地には今井津、大橋津ほか優良な港津・港湾があった。行事津・大橋津は古代・草野津の後身である。干潟内のミオ(干潟内河川、澪・水脈と書き、タオともいう)を遡り、また下る。津にて積載した船は干潮を利用して沖合まで下り、満潮時に潮に乗って周防国小郡(おごおり)津など他の港を目指す。あるいは下る潮に乗って豊前門司や中津(中津川)へ、また港伝いに豊後国国東津や豊後国府津たる府内、さらに鶴崎、佐賀関を目指すこともできる。他の港から沖合まできて停泊し、満潮時に、京都郡の港に入る。瀬戸内海・周防灘の干満作用を受けて河川内部にも潮の満ち引きがある。人間の労力ではなく、自然の干満の力を利用すれば、大量物資の内陸部への運搬が可能であった。ミオには干満の流れによる浸食作用によって、つねに水深がある。そうしたミオを残して、周囲で干拓が進行した。近世干拓進行以前のミオ筋が、現在の河道として残る。豊前国府は祓川河口今井津を国府津とすることで、物資や人の移動を可能にした。
 京都平野の物資を外の世界に運び出す。米を収納しておくために倉敷(くらしき)が置かれた。国府や諸荘園の倉庫が立ち並んでいた。問(とい)や土倉(どそう・とくら)などの商人もいたことであろう。倉を守る兵士も必要だった。大橋津や今井津では大野井荘倉敷の存在や西郷荘年貢米の集積などの事実が史料上で確認できる。
 今井津には市ができた。今井には市場という地名がある。市では市日に相場(和市(わし))が立つ。相場の高下により、売り手も買い手も集まってくる。今井津の市場相場(和市)を調査した上で取引するように、大内氏が周防山口から指示している。こうした市は河口津だけではなく、内陸各地の荘園にもあって、今川旧河道に沿った大野井に市場地名が残っている。
 人が多数集まる津には大きな祭りの行われる神社もあった。今井祇園神社(元永・須佐神社)では祇園祭に連歌会が開催され、芸術文化の結節点になった。真宗・浄喜寺のように、多数の信者が集まる寺院もできた。本願寺教壇は九州における布教拠点として今井を重要視しており、実如による寺号(浄喜寺)書下(かきくだし)が残るほか、教如の時代にさかんに交流のあったこともわかる。伊勢講に有力檀那として参加する武士にも大橋・今井津に居住する者がいた。隣接して鋳物師(いもじ)のむら、金屋もできて多くの梵鐘が製作され、九州北部の各地に運ばれた。
 物流の道は、大宰府発着を義務づけた政治・行政の道とは次元を異にし、京都ほか大型消費地に直結するものであった。「倉敷」が象徴するように、瀬戸内地方、畿内地方と直結する海の道があった。
 こうした場に目をつけ、支配下におさめようとするのは領主、大名である。
 豊かな富とそれをめぐる利権があった。したがって他地域からの侵略も多く、祓川河口の沓尾や、祓川・今川・長峡川の三河川の河口になる蓑島は軍事的な拠点として城や砦となった。すなわちこの島は周防・安芸など他国が豊前を侵攻する場合の拠点になった。渡河作戦の場合に橋頭堡(きょうとうほ)を築くように、渡海作戦の場合には海岸堡(ほ)を築く。他国を侵略する場合、まず上陸地に容易には陥落しない要塞を築く。小高い山が選ばれることが多い。山に上がられると、攻め手は下から上に向かってしか攻撃できないが、弓矢、投石などは上の位置にいる者のみが使うことができた。下から上には兵器(飛び道具)が使えないので、攻撃力は著しく減少した。蓑島や沓尾こそ、典型的な海岸堡であり、この地においてしばしば合戦が行われたのは、海岸堡の争奪である。すなわち大内氏あるいは毛利氏が九州制覇を企て、大友氏と対決するときは、多くこの蓑島占拠を試みており、永禄四年(一五六一)、天正七年(一五七九)と、蓑島をめぐる攻防がくりかえされている。また沓尾をめぐる大内・大友間の攻防は文亀元年(一五〇一)で、このとき(閏六月)大内方も大友方も双方が多大な犠牲を払ったが、大内氏は沓尾自体を死守し得たようで、一月後(七月)には馬ヶ岳城をめぐる激しい攻防があった。
 蓑島は、当時は離島で、祓川から海へは蓑島の南側から出、今川・長峡川からは北側に出た。蓑島を敵方に掌握されると、今井津・大橋津の舟は河口の通過が著しく難しくなった。喉元を押さえられるから、事実上の港湾封鎖となる。『海東諸国紀』に蓑島の海賊大将・玉野井邦吉(くによし)の名が登場する。津隈荘の年貢送進にも蓑島の藤左衛門尉が活動している。いずれも蓑島支配による港湾掌握を意味するものだ。蓑島と大橋・行事・今井の各津、そして背後の京都平野諸荘園は一体化していた。
 河口津の後背において、京都平野の利権を把握しようとする動きは各時代に共通してあったであろうが、史料上、鎌倉時代後期には特に顕著である。鎌倉時代の武士の動向を見よう。京都平野地域にいた武士には、都(みやこ)氏がいる。京都郡の郡名である「都」を苗字としているから、郡全体に力を有した武士であろう。大野井荘荘官(田所(たどころ)職)であったが、その一族には鋤崎(すきざき)を名乗る庶子がいた。今の苅田町鋤崎(京都郡)であろう。郡名を名乗る惣領と、村名を名乗る庶子家が分出されていた。都氏の惣領は大野井以外にもいくつかの村の所職を得ていたと推測できる。「秀」また「広」(弘)を通字(とおりじ・つうじ)としているようだが、都種秀のように「種」の字を使うものもおり、かつて豊前国税所(さいしょ)職をもち、城井(きい)浦などで活躍し、大宰府官人でもあった大蔵種人、種遠らとの関係も推測できる。末裔か、ないしは大蔵氏を強く意識する一族であった。南北朝期以降、都氏の一族が恩賞地として肥前国神崎(かんざき)荘に所領を得たことまではわかるが、以後は都氏という名前は史料からは消える。「種」を名乗る武士には稲童(いなどう)名の高瀬種忠もいた。
 ほかに在来の領主には天生田(あもうだ)荘荘官・公文職の天雨田(あもうだ)氏がいた。
 中世後期にも彼らの活動を追うことができる。文明一〇年(一四七八)頃の豊前・草庭名に「種」を通字とする一族(黒水氏)がいた。下毛郡黒水が拠点(苗字の地)だが、津隈(つのくま)荘の名(みょう)の名前に一致する畠中名を所有し、津隈荘に所領を持つ池永氏と縁戚であるなど、この地域には関係が深かった。鋤崎の字(小字(あざな(こあざ))名)に草場がある。もしも草庭名をこの地に比定することが可能であれば、豊前黒水氏も大蔵一族末裔で、都氏ともゆかりが深かったようだ。
 こうした仲津郡・京都郡内の地名を姓とするような武士は、古代からの系譜をひいて京都平野に君臨していたのである。かれら在来武士は、源平内乱を乗り切ったものの、鎌倉時代以降、しだいに関東武士に抑圧されていく。とくに鎌倉時代の後期には幕府執権の北条氏一族・被官(家臣)の進出が著しかった。
 まず天生田荘には天雨田氏の権益を排除するかたちで、北条氏被官人の安東(あんどう)氏が公文となった。津軽や若狭(わかさ)を中心に活躍した安東氏の一族かと思われる。安東氏は日本海や瀬戸内海を中心に活躍した。一族はいくつもの流れがあったが、得宗(とくそう)(北条氏嫡流(ちゃくりゅう)のこと・この時は貞時)御内(みうち)人で豊後国佐賀関を領有し、摂津国福泊(ふくどまり)を築いた安東蓮聖(蓮性)も一族と考えられ、海の支配者という側面が濃厚にあった。
 今井津に隣接する上流の平島には北条氏一門、備前宗演(びぜんそうえん)(北条一族名越(なごえ)氏か)が入った。吉田荘には北条家時(大仏維貞(おさらぎこれさだ)子)が入り、同郡稲童(いなどう)名には高瀬氏につづき武藤氏(少弐氏庶流)が入った。この武藤氏も鎮西探題金沢(かねさわ)氏(北条氏の一流)の被官だった。北条氏による重要港湾の掌握は全国的な傾向ではあったが、豊前でも顕著に北条一門ら有力勢力が権益を伸ばしていた。鎌倉時代以降、豊前国守護に準ずる存在であった宇都宮氏も、今井津・元永を掌握していた。この一帯にあった巨大な富と利権の存在を語っている。河口の港湾機能とそれがもたらす富であった。
 南北朝期の内乱で北条氏の一門は多く凋落する。豊前では北条一門の規矩(きく)高政(規矩〈企救〉郡を本拠)や糸田貞義(糸田荘を本拠)が建武政権に反乱を起こしたが、鎮圧された。だが、なかには延命し得た者もいた。天生田荘・安東氏は南北朝期以降もこの地を拠点に活躍し、大野井荘にも進出する。この地域ではただちに足利政権の確固たる樹立がなされたわけではなく、南朝方勢力の進出があり、正平(しょうへい)など南朝年号を用いた文書が多く使われた。そうした状況も安東氏には幸いしたかもしれない。馬ヶ岳城々主に新田氏の伝承があるが、実際に新田田中蔵人という人物が畠原下崎荘や大野井荘に登場する。南朝の勢力が及んでいたことを示す。新田義貞嫡妻は上野(こうづけ)国甘楽(かんら)郡安東重保女子で、北条高時被官聖秀はその伯父だった。新田一族は得宗被官人であった安東氏とは関係が深かったのである。得宗家に殉ぜず、新しい生き方を模索できた豊前安東氏は、戦国時代までこの地に勢力を維持していく。
 京都平野から東、中国・畿内を目指す場合に、直接に船出する場合と、一旦、関門海峡まで陸路を経由する場合とがあって、戦国時代の島津家久の一行は後者を選択している。九州に上陸し馬ヶ岳城に入城する豊臣秀吉のルートも同じであった。複数のルート、選択肢があった。しかし中世が終わって、豊前の領主に細川氏が入部した際の記録(松井家史料)を見ると、今井津の港と中津川の港(中津)の双方が頻繁に使われている。畿内・瀬戸内に直結する海の道としての重要性は、古代の草野津以来、かわらぬものであったということができる。