京都平野で中世まで継続する荘園が確認されるようになるのは一〇世紀の末からである。全国的な趨勢から見て早く中世的な荘園が形成された理由は、豊前国内に、国家の宗廟(そうびょう)と崇められた宇佐神宮(うさじんぐう)とその神宮寺弥勒寺(じんぐうじみろくじ)が所在していたことにあり、京都平野における荘園の初見も弥勒寺領に求められるのである。
こうした大社・大寺などは、もとより古代の律令制下においては田地や人民を国家から給与されていた。寺社側は直接これを支配・経営するのではなく、給与された田や民から得られる租税の相当額を、国家から受け取ることが一般的であり、宇佐宮寺も大宰府(だざいふ)や国衙に大きく依存していたのである。一〇世紀以降、律令的な枠組みが形骸化すると、国家の給付に滞りが生じ、次第に直接土地を得て収益を確保しようとする動きが強まってくる。こうして次第に成立したのが荘園であり、紆余曲折を経ながらその数は拡大していったのである。
弥勒寺領がどのような過程を経て拡大を遂げたのかについて、多くを語る史料は残されていない。しかし一〇世紀末には早くも京都郡内で直接の経営に乗り出していたことが窺われ、これがのちに小波瀬川・長峡川流域に多くの荘園を展開させる基礎になったと推測されるのである。
『本朝世紀(ほんちょうせいき)』は院政期に編まれた歴史書であるが、その長保元年(九九九)三月七日条には、大宰府からの報告を引用して長徳四年(九九八)九月に、京都郡賀田郷(今の苅田か)で米の雨が降るという奇瑞(きずい)が起きたことを伝えている。それによると弥勒寺講師(こうし)の長祐(ちょうゆう)が、宇原(うはら)荘(現苅田町)において草野(くさの)荘前検校(けんぎょう)の早部真理からこの一件を聞き及び、大宰府へ伝達したと分かる。その背景には、八幡神の権威を高めようとする宇佐側の政治的な思惑も見てとれるが、注目したいのは弥勒寺の最高責任者たる講師が、京都郡に往来し現地の情報に通暁していた点である。宇原荘は現在の苅田町馬場一帯に、草野荘は行橋市内の草野一帯に相当する。鎌倉期にはともに弥勒寺領であることが確認される荘園であるが、長祐の動きからみて、当時すでに宇原・草野両荘が弥勒寺の支配下にあったと見てよいだろう。弥勒寺の影響力は、一〇世紀末には既にこの地に及んでおり、その起源はさらに遡ると考えられる。
古代において京都平野から流れ出る河川の河口は、草野一帯に集まっており、ゆえに津(つ)として機能していたことが知られている(『行橋市史』上巻五章一節参照)。大宰府からの物資が古代官道(かんどう)を経由して草野に至り、瀬戸内海へと搬出されていたことは広く知られている。国衙とも指呼の間にあるこの一帯は、交通の要衝となっており、ゆえに有力権門である弥勒寺は積極的に進出を図ったのであろう。