源平の争乱からの復興という情勢のもと、国衙および荘園領主の双方は、荘園・公領のあり方を確認するため、それぞれ所領の台帳ともいうべき帳簿を多数作成している。こうした動きは全国的なもので、おそらく鎌倉幕府から何らかの指示を受けたものと考えられる。豊前国においても同様の史料が作成されており、なかでも行橋周辺の状況を知るには以下の三点が大変有益である。
①豊前国衙が建久八年に作成した「豊前国図田帳(ずでんちょう)写」(到津(いとうづ)文書、以下「図田帳写」と略記する)
②宇佐宮が建久年間に作成したと推定される「宇佐神領大鏡(うさじんりょうおおかがみ)」(到津文書、以下『大鏡』と略記する)
③弥勒寺が鎌倉初頭に作成したと推定される「弥勒寺喜多院所領注進状(みろくじきたいんしょりょうちゅうしんじょう)」(石清水田中文書、以下「注進状」と略記する)
②宇佐宮が建久年間に作成したと推定される「宇佐神領大鏡(うさじんりょうおおかがみ)」(到津文書、以下『大鏡』と略記する)
③弥勒寺が鎌倉初頭に作成したと推定される「弥勒寺喜多院所領注進状(みろくじきたいんしょりょうちゅうしんじょう)」(石清水田中文書、以下「注進状」と略記する)
①は宇佐宮大宮司の到津家に残された史料で、豊前国内の全ての荘園・公領を記載した図田帳から、宇佐宮・弥勒寺に関するものを抜粋したものである。残念ながら断簡となっており、現在は田河郡・規矩郡・京都郡相当部分だけが伝来している。②は宇佐宮が平安時代に獲得した所領・荘園を網羅的に書き上げた長大な史料で、個々の所領につき形成の経緯を詳細に記している。③は弥勒寺内の有力子院であった喜多院が、自ら支配する荘園を書き上げたものである。有名な藤原道長(みちなが)が願主となった喜多院は、弥勒寺内で大きな力を持ち、弥勒寺領荘園の大半を支配していたのである。以下、この三史料をあわせて分析することで、京都平野における荘園・公領の展開を把握し、さらにその形成過程を検討してゆこう。
これらの史料を一見して理解できることは、弥勒寺の圧倒的な影響力である。市域北部においては、宇佐宮領の津隈(つのくま)荘を除き、そのほとんどが弥勒寺領荘園と化している。京都・仲津両郡の荘園分布を見れば一目瞭然であろう(図1)。①の「図田帳写」に記された京都北郷(京都郡の北半分に相当)の場合、総面積五七五町余のうち二〇六町と、弥勒寺領が三分の一強を占めている。同南郷も総面積は不明ながら、やはり同寺領が一九五町を数えており、同様の比率であったことが予想される。すなわち弥勒寺は京都郡全体で四〇〇町を超える規模の所領を確保していたのである。
さてこの弥勒寺領であるが、「図田帳写」の記載を注意深く見ていくと、もとより荘園として国衙から認定を受けたものと、加納(かのう)とよばれる国衙にも荘園領主にも属するものの二つからなっていたことが分かる。前者に当たるのが草野(くさの)荘・宇原(うはら)荘・畠原(はたばる)荘・大野井(おおのい)荘であり、苅田荘(「図田帳写」では苅田二郎丸とあり)や荒津(あらつ)別符(同じく荒津四郎丸とあり)などが後者に分類される。
荘園は一般に、本荘(ほんしょう)とよばれる国衙(こくが)から正式に認められた田地を核として成立し、後に様々な理由にもとづいて周辺の国衙領を取り込んで拡大するのが常であった。荘園に取り込まれた田地については、国衙が年貢に当たる官物(かんもつ)を収納し、荘園領主が雑税である雑役(ぞうえき)を確保することが多い。このように本来は国衙領だったものが荘園と両属するようになった地を加納と称し、その租税の負担方式を半不輸(はんふゆ)と呼んでいる。当然ながら本荘の成立が古く、加納はそれに続くことになる。先に紹介した草野(くさの)・宇原(うはら)の例から見ると、京都平野では本荘に該当するものは一〇世紀末に成立したと見られるから、加納の成立は一一世紀以降に求めてよいだろう。「図田帳写」によると、弥勒寺(みろくじ)はこうした加納の地を一括して得善名(とくぜんみょう)と名付け、支配を行っていたことが分かる。一般に加納も両属関係を脱して荘園領主のもとに一元化される場合が多かったが、弥勒寺領においては建久年間になっても本荘と加納では支配のあり方が相当に異なっていたと見られる。③の「注進状」では、大野井(おおのい)荘などで荘田と名田に区分されて田数が記されているが、これも本荘と加納に対応する区分と考えて良いだろう(二章一節三参照)。
一方、宇佐宮もまた、弥勒寺領に比べると小規模ながら同じように所領を展開しており、②の「大鏡」にその詳細が見えている。これによると京都・仲津両郡において、本荘に相当するのは京都郡の津隈荘ただ一つであったが(「図田帳写」では四〇町、「大鏡」では七〇町と見える)、弥勒寺同様に大規模な加納を展開させていた。
津隈荘は、京都・仲津両郡に散在していた宇佐宮所有の田地を、津隈一帯の国衙領と交換したことに起源をもち、康平四年(一〇六一)に荘園として正式に認められたと見える。一方、加納所領としては、加地子田(かじしでん)と称される田が京都郡に八七町弱、仲津郡にも同様の田地が八五町前後分布していたことが分かる。これらの田地は宇佐宮が買得などによって入手したものと推定され、国衙の認可を得て次第に加納に組み入れたと見られる。宇佐宮は加納の地をまとめて常見(恒見)名(つねみみょう)と名付けて支配していたが、これは弥勒寺領における得善名に当たるものである。豊前国全体に広がる常見名は、安元元年(一一七五)に宇佐宮仮殿(かりでん)造営の費用にあてるため、宇佐宮に一元的な支配が認められ、国衙との両属状態を解消した。しかしその後も国衙側に取り戻しを図る動きが度々あったため、宇佐宮は治承四(一一八〇)に朝廷から再度認可を得て、一円神領(いちえんしんりょう)として排他的な支配権を確立したのである。
以上のように京都平野では一〇世紀末から本荘の展開が始まり、つづく一一・一二世紀には公領を侵食して加納が拡大するという過程を辿ったことになる。おそらく加納をめぐっては、当時多くの国で見られたように、国衙との間に利害をめぐる激しい対立が生じていたと推測される。行橋市域では、荘園領主の力が遙かに勝っていたかに見えるが、隣接する地域では逆となる場合もあり、両者は拮抗しつつ荘園公領の枠組みを固めていったと見るべきであろう。
さて宇佐宮・弥勒寺の所領に限って叙述を進めてきたのであるが、当然ながらこれ以外の権門を領主とする荘園もまた、並行して形成されたと考えなければならない。①の「図田帳写」は、宇佐宮に属する人が抜き書きしたものであったから、宇佐と無関係な記述は省略されており、他の荘園領主の動向は不明確である。しかしながら鎌倉期に入って確認される市域南部の諸荘園も、一二世紀中には成立したと見るべきである。具体的には天生田(あもうだ)・吉田(よしだ)・久保(くぼ)の各荘園がこれに該当するが、このうち吉田荘についてはやや詳細を知ることができる。稗田(ひえだ)を中心に長峡川中流域を占めた同荘は、鎌倉期に摂関家藤原氏の嫡流にあたる近衛家(このえけ)が所有していた。建長五年(一二五三)に作成された近衛家の所領目録からそうした事実が判明するのだが(近衛家文書)、ここで注目すべきは、同荘が高陽院(かやのいん)領に含まれるとする注記である。高陽院とは藤原忠実(ただざね)の娘で鳥羽(とば)上皇の后となった泰子(やすこ)を指す。彼女は久寿二年(一一五五)に死去しているから、吉田荘の成立がこれ以前に遡ることは確実である。天生田や久保に至っては荘園領主が誰なのかさえ判然としない。しかし成立の時期はやはり同様であったと見るべきだろう。