一二世紀初頭に至る動向

47 ~ 49 / 898ページ
 右のように京都平野の荘園の多くは、一一世紀から一二世紀にかけて形成されたと予想されるのだが、これに対して豊前国衙や大宰府がどのような態度をとっていたのか検討しておかなくてはならない。最終的な荘園の広がりをみると、荘園領主が順調に勢力を拡大していったような印象をうけてしまう。しかしながら、市域の周辺に目を配ると荘園の形成は、大宰府や国衙の政治的動向と絡んで紆余曲折をたどるのが一般的である。しばし隣接地域に目をくばり、荘園形成の動向について簡潔に論じておくこととしたい。参考として表1に掲げたのは、前述した「宇佐神領大鏡」に見える豊前国内の宇佐宮領の記事をまとめたものである(以下、「大鏡」と略す)。
 
表1 豊前国内における宇佐神宮領の動向
No.西暦和暦荘園名事項
11007寛弘4規矩到津荘御封田と交換により荘園として立券される
21030長元3上毛角田荘御封田と交換により荘園として立券される
31031長元4田河勾金荘国司(豊原時方)の任に御封田と交換により立券される
41047永承2築城築城郡大宰権帥藤原経通卿により五町を寄進される
51054天喜2規矩貫荘神領と交換により荘園として立券される
61058康平1田河勾金荘国司(令宗業任)の任に神領と交換により荘園として立券される
71061康平4京都津隈荘国司(令宗業任)の任に神領と交換により荘園として立券される
81063康平6上毛角田荘国司(令宗業任カ)が祈祷料として寄進、荘園として立券される
91064康平7仲津城井浦宇佐宮が点定により領有する
101071延久3宇佐新開荘延久荘園整理令の対象になるも免除される
111084永保年中規矩長野荘大宰権帥藤原資仲が、宝前一切経料として寄進する
121097永長2田河虫生稲光大宰権帥大江匡房が府領から寄進する
131104康和年中仲津城井浦安楽寺が横領を図る
141104康和年中田河虫生稲光大宰帥大江匡房が馬場三昧堂仏燈油料として寄進
151109天仁2仲津城井浦大宮司宇佐公順が城井浦の文書を購入し、大宰府の承認を得る
161110天永1築城伝法寺買得により神領となる
171121保安2仲津・築城赤幡社・広幡社・橘社大宰権帥源重資より千手陀羅尼供料として寄せられる
181121保安2仲津・築城幡野浦買得により神領となる
191140保延6規矩長野荘大宰帥藤原顕頼が宝前金剛般若経仏聖燈油料として寄進する
201141保延7角田荘・到津荘・勾金荘・築城郡大宰府にて荘園としての存廃が審議される
211141保延ごろ仲津・築城城井浦・幡野浦宇治僧正御房領として伝法寺四至にうちいれられる
221141保延ごろ築城伝法寺宇治僧正御房領として横領される
231152仁平2築城伝法寺成勝寺領として立券され、領有を失う
241154仁平年中仲津・築城城井浦本家高陽院を通じて院庁下文を獲得し.押妨を排除する
251163長寛1規矩長野荘国司庁宣・殿下下文により余田部分に不輸が認められる
261169嘉応1規矩長野荘官符により勅院事などが停止される
271175安元1常見名院庁下文により御炊殿造営料として不輸神領となる
281180治承4常見名官宣旨により不輸が確認される
(注)表中の網掛けは、宇佐神宮領が整理・廃止・押領などにあったケースである。

 同史料は、宇佐宮の所有する荘園について、個別に成立の過程やその後の経緯を記しており、国衙・大宰府の政治的姿勢をおよそ窺い知ることができる。この表に見える傾向が全て京都平野に当てはまるとは言えないが、全体的な動向を見る上では参考になるだろう。
 表が示すように、豊前の宇佐宮領は一一世紀に入り大幅に拡大していった。このころ地方制度の全国的再編がなされており、これと軌を一にして荘園が拡大していったのである(坂本賞三『荘園制成立と王朝国家』)。京都平野の津隈荘もこの流れの中で成立したのである(表1の7)。
 こうした拡大傾向が調整局面に入るのは延久年間のことであった。宇佐郡に所在する新開(しんかい)荘は新制官符(しんせいかんぷ)によって廃止の対象となったが、どうにか存続を認められたと「大鏡」は記している(表1の10)。新制官符とは後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が全国を対象として発令した延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)のことである。この法令によって荘園領主は荘園ごとに証拠文書を示して成立の由緒を明らかにする必要に迫られた。寛徳二年(一〇四五)以降に成立した荘園を廃止し、それ以前に遡るものも文書が不備であれば存続を認めないという方針のもと、摂関家(せっかんけ)領も含めて多くの荘園が整理されたことは良く知られている。この政策は荘園の全廃を意図したものではなかったが、国衙の業務に支障を来すものを整理し、荘園と公領のバランスを図ろうとする狙いを持っていた。新開荘に見られるごとく、豊前国衙も同令に基づいて宇佐宮・弥勒寺に相当の圧力をかけたと思われる。今のところ確認できないが、京都平野にも停止や縮小の憂き目にあった荘園が存在していたと見て良いだろう。
 右のような荘園整理政策は院政期に入っても断続的に維持されたが、一二世紀初頭になると荘園が拡大する傾向は一層顕著となり、平行して北部九州の各所では大宰府安楽寺(あんらくじ)・観世音寺(かんぜおんじ)・宇佐宮寺といった代表的な荘園領主が、互いの所領支配をめぐって激しく衝突するようになる。豊前では宇佐の勢力が抜きん出ていたためか、こうした衝突は少なかったようであるが、仲津郡城井浦(きいうら)(現犀川町)で安楽寺が所領の押領を企てたと「大鏡」に見えており(表1の13)、例外ではなかったと見られる。権門(けんもん)間の衝突という背景には、荘園の拡大に伴い権益の争奪が激化したこと、さらに国衙や大宰府の統制力が弱くなったために、利害調整が円滑に進まなくなったことなどがあった。
 表1に見える宇佐宮領の動向を見ると、一二世紀の初めまでは、紆余曲折があったにせよ、大筋で荘園拡大を実現してきたことがわかる。これは九州所在の他の権門も同様であった。しかし一二世紀第二四半期のいわゆる鳥羽院政(とばいんせい)期になると、こうした傾向に大きな変化が生じている。鳥羽上皇が政務を行ったこの時期、荘園制は新たな局面を迎え、その影響は確実に豊前にも及んだ。宇佐宮領の動向から見る限り、その変化が始まったのは一一四〇年代であり、大宰府・国衙からの圧力が格段に強まったのである。