鳥羽院政と荘園政策

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 保延年間(一一三五~四一)、宇佐宮は角田(すだ)荘(上毛郡)・到津(いとうづ)荘(規矩郡)・勾金(まがりかね)荘(田河郡)・築城(ついき)郡について大宰府から証拠文書の提出を求められている(表1の20)。これは一国単位で発せられた荘園整理令と考えられるが、その直前にも日向国で同様の整理のあったことが「大鏡」に見えている。こうした動きの背景には大宰府のおかれていた政治的状況を考慮しておく必要がある。当時大宰府の長官には院近臣が配置されることが一般的であり、保延年間には鳥羽院近臣として高名な藤原顕頼(あきより)が権帥に任じられていた(五味文彦『院政期社会の研究』)。豊前国司が誰であったのか不明ながら、日向では後に出家して信西(しんぜい)と名乗る藤原(高階)通憲(みちのり)が守になっており、同様に院近臣が配されていたことが分かる。こうした関係を踏まえると、国司(こくし)と大宰府が連携する形で行われた荘園整理は、院近臣が主導する政治的な色彩の濃いものであったと見るべきであろう。
 もっともこうした荘園整理は延久以降、あるいは全国的にあるいは一国を単位としてしばしば行われており、特別な変化とは言えない。むしろ鳥羽院政期における注目すべき動きは、一方で先行する荘園を抑制しつつ、他方で院近臣らが中核となって巨大な荘園を各地に設定していったという点にある。院近臣・国司・在地有力者が密接に結びつき、周辺の荘園や公領を囲いこむことで半ば強引に広大な領域を占有し、その多くを皇室領の荘園としていった。院をはじめ王家(おうけ)の人々もこうした動向を抑えることなく、むしろ積極的に承認する側に廻ったのである(川端新『荘園成立史の研究』、高橋一樹『中世荘園制と鎌倉幕府』)。
 「大鏡」の記す伝法寺(でんぽうじ)(現築城町)のくだりは正にこれに該当するものである。伝法寺は、宇佐大宮司公基(きんもと)の私有するところであったが、彼の死後に証拠文書が宇佐宮を統括していた摂関家周辺に流失し、最終的には崇徳(すとく)天皇の御願寺であった成勝寺(せいしょうじ)へと渡っている(服部英雄「伊良原の歴史と地名・地誌」)。これを契機として仁平二年(一一五二)に伝法寺は成勝寺の荘園として正式に立券されてしまうのだが(表1の23)、その際にいずれも宇佐宮領であった桑田(くわた)郷(現築城町)・大野(おおの)郷(現築城町)・城井浦(きいうら)(現犀川町)・幡野社(はたのしゃ)(現犀川町)・橘社(たちばなしゃ)(現犀川町)・赤幡社(あかはたしゃ)(現築城町)という広大な領域が加納として荘内に取り込まれてしまうのである。宇佐宮は様々な手段を通じて城井浦の保持には成功したものの、他の領域については言及がなくそのまま支配権を失ったと見られる。
 このような半ば強引な押領が実現したのは、豊前国衙を掌握していた板井種人(いたいたねひと)(「大蔵系図」では種久(たねひさ)と見える)・種遠(たねとお)親子が在地において主導的な立場にあったことに求められる。彼らは税所(さいしょ)や田所(たどころ)といった国衙の中枢機関を掌握するとともに(到津文書・佐田文吉、国衙(現豊津町)から比較的近傍の伝法寺周辺に強い影響力を持っていたのである。板井氏がどのような過程で豊前に進出したのか明らかでない。だが彼らが大宰府の有力府官大蔵氏(ふかんおおくらし)の庶流に属することを踏まえると(「大蔵系図」)、その政治的権威を背景に進出してきた可能性が大きい。前述のように、このころ大宰府は、長官である権帥(ごんのそち)・大弐(だいに)を院の近臣が占めており、これを受けて有力府官も院権力と結びつき、各地で巨大な院領荘園を作り出していた。府官につながる板井氏は、まさにその手法に倣って伝法寺の立荘(りっしょう)を図ったと考えられるのである。
 行橋市域を核とする京都平野においては、このような強権的な立荘は確認できない。山間部の未開発地を多く含む領域と異なり、早くから開発が進んだ市域では、弥勒寺や宇佐宮(うさぐう)などの権利関係が複雑に交錯していたため、立荘の動きは、抑制されていたのであろう。しかし同じ宇佐勢力の所領が広範囲に切りくずされてゆく近隣の状況は、京都平野にも少なからず影響を与えたものと考えられる。さらに板井氏と同じ大蔵一族と推定される勢力は、市域にも進出していた。高瀬(たかせ)の勝手(かって)神社および稲童(いなどう)の安浦(やすうら)神社(写真1)の伝承は、当地が高瀬太郎種忠(たねただ)という人物の支配下にあったことを伝えている(『京都郡誌』)。種が大蔵一族の通字であることや、鎌倉初頭を最後に姿を消してしまうことを考慮すると(二章一節一参照)、平家とともに潰えた板井氏との関係を想定すべきである。実際『豊前市史』が新たに紹介する「大蔵氏系図」(大蔵正幸氏所蔵)には種忠が見え、窪(くぼ)(久保、現勝山町)や稗田(ひえだ)にあった大蔵氏の庶流とも血縁関係で結ばれていたとある。高瀬や稲童は荘園となった形跡がなく、おそらくは国衙の官人であった高瀬氏のもとで国衙領として維持されていたのだろう。こうした状況を踏まえると、市域においても伝法寺の立荘のような事態が起こる可能性は皆無とは言えなかったのである。
 
写真1 安浦神社
写真1 安浦神社(稲童)