右のような圧力が消え豊前一帯の荘園公領が安定的な形に移行するのは、平清盛(たいらのきよもり)が大宰府を掌握した保元三年(一一五八)以降である。清盛が大宰大弐(だざいだいに)となったのは彼が後白河院の近臣であったことによるが、荘園政策では独自の姿勢を打ち出してゆく。それは宇佐宮寺や安楽寺といった伝統勢力との軋轢を避けて、その荘園を積極的に保護するというものであった。表に見るとおり、豊前の宇佐宮領はこのころ相次いで荘園の不輸地化が進んでいる(表1の25~28)。これは、それまで国衙と宇佐宮に両属していた加納所領を、宇佐宮の支配下へ一元化することを意味した。京都平野にも広がっていた宇佐宮の常見(つねみ)名は半不輸(はんふゆ)の所領であったが、やはりこのころに不輸化され、国衙の影響力はついに排除されている。おそらく弥勒寺の加納所領のうちにも同様に推移したものがあったと考えられる。
こうした保護政策は、鳥羽院政下で見られた国衙在庁や大宰府官らの行動を、平氏が厳しく抑制したことによって実現したものである。しかし単に威をもって制圧したのではなく、彼らを既存荘園の管理者として認定し、その権利や立場を保証することで、荘園領主との協調関係を実現させたことが大きい。平氏は伝統的な勢力と妥協しつつ、同時に家臣団の組織化に努めたのである。こうした姿勢は鎌倉幕府にも受け継がれるもので、武家政権の基本的なスタンスとなっていったのである。平氏による右の政策は豊前にも浸透し、宇佐宮領を蚕食していた前述の板井種遠は宇佐大宮司と婚姻関係を結んで協調するに至る。源平争乱のさなか平氏方にあった宇佐宮は豊後武士団の攻撃を受けるが、そのさい防衛にあったのはこの種遠であった。(「元暦文治之記(げんりゃくぶんじのき)」)おそらく市域に影響力を及ぼしていた大蔵系諸氏も同様に協調的な姿勢を示したものと推測される。