元暦二年三月、平氏は長門壇ノ浦(だんのうら)において滅亡した。豊前地域は南から緒方(おがた)氏ら豊後武士団の圧力を受け、平氏方の退勢は覆うべくもなかったが、最終的な段階に至るまで親平氏勢力が国衙(こくが)周辺を維持していたと推定される。その前年にあたる元暦元年七月、緒方惟栄(これよし)が豊前に入り宇佐宮を襲撃した際、これと戦ったのは伝法寺(でんぽうじ)に拠点を持つ板井種遠(いたいたねとお)であった。恐らくこの戦闘には板井氏の配下にあった当地域の武士も動員されたことであろう。宇佐宮への攻撃は防げなかったものの、豊後武士団がそのまま北上して豊前を制圧した形跡はない。九州攻略をめざして同年に派遣された源範頼(みなもとのりより)も、周防・長門から豊前に進撃することが叶わず豊後に渡っており、依然として当地方には平氏勢力が温存されていたと分かる。「豊前国大田文断簡(ぶぜんくにおおたぶみだんかん)」(到津(いとうづ)文書)によれば、壇ノ浦の後、鎌倉方によって没収された平氏方所領は計九三〇町余を数えており、勢力の大きさが窺われる。当然のことながら板井氏はじめ大蔵系諸氏の多くは姿を消し、宇佐宮・弥勒寺(みろくじ)領は没収こそ免れたものの、しばらくは厳しい監視のもとに置かれたのである。
鎌倉幕府による九州の戦後処理は、当初源範頼が当たったが、文治元年(一一八五)七月には近藤国平(こんどうくにひら)・中原久経(なかはらひさつね)が代わり、さらに翌文治二年になると天野遠景(あまのとおかげ)が大宰府へ派遣されている。遠景が鎮西に下った段階においても情勢は未だ安定せず、貴海島(きかいがしま)に義経(よしつね)方残党の潜伏情報があり、その制圧が焦眉の課題となっていた。そこで文治三年九月に鎌倉から送られたのが宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)である(『吾妻鏡(あづまかがみ)』。宇都宮氏に関しては則松弘明『改訂増補版鎮西宇都宮氏の歴史』が詳細な分析を行っている。本論も多くを同著によっている)。下野(しもつけ)宇都宮氏の一流に属する信房は、源平内乱の早い段階から御家人として仕え、頼朝の信任を得ていた。彼は所衆(ところのしゅう)と称されるように朝廷の蔵人所(くろうどどころ)に仕える下級職員としての経歴があり、都での活動経験をもった吏僚でもあった。頼朝の信頼を得て鎮西へと派遣された理由は、こうした彼の履歴に負うところが大きかったと予想される。信房は所領として板井種遠跡を与えられて貴海島平定を目指し(佐田(さだ)文書)、紆余曲折を乗り越え、文治四年五月に同島制圧に成功している(『吾妻鏡』)。
信房が板井氏から引き継いだ所領としては、豊前国衙在庁職豊前国衙在庁職(田所・税所(ざいちょうしき(たどころ・さいしょ))・柿原(かきはら)名(現大任町)などがあり(佐田文書)、また史料上の裏付けはないものの伝法寺一帯を得たことは確実で、城井谷(きいだに)に居を構えて勢力の確立に努めた。こののち豊前国内に勢力をひろげ、多くの支流を輩出した同一族であるが、鎌倉時代を通じて宇都宮氏が当市域に所領を有していた形跡はない。やはり板井氏が直面したのと同様に、京都平野には宇佐宮・弥勒寺につながる勢力ほか、国衙に関わる有力者などがあって、進出を阻まれたのではなかろうか。しかしその影響力が及んでいたのは確実で、信房は九州入りするに当たり稲童から上陸したと伝えられ(『京都郡誌』所収「安浦神社由緒書」)、実際に城井谷の人々は現在も稲童まで出向いて神事を行うなど深い結びつきを持っている。国衙の南側を掌握し、国内に大きな勢力を扶植した同氏の動向は、中世京都平野に陰に陽にさまざまな影響を与えつづけるのである(則松前掲書)。