宇都宮氏よりやや遅れて、一三世紀に入ると武藤(むとう)氏が京都平野に姿を現す。武藤氏もまた東国出身の御家人で、建久年間に天野遠景に代わって大宰府に下り、鎮西の支配に当たった一族である。大宰府を統括する少弐(しょうに)という官職を世襲したことから、後に少弐氏と呼ばれ戦国時代にいたるまで北部九州に大きな力を維持し続けた。
稲童には大蔵氏庶流の高瀬種忠(たかせたねただ)が内乱期の混乱を生き延び、御家人として幕府から認められていたようである。しかし建暦元年(一二一一)になって種忠の息稲童丸(いなどうまる)は、武藤宗平(むねひら)にこの地を譲与している(和布刈(めかり)神社文書)。宗平は武藤氏の当主資頼(すけより)の弟に当たり、豊前規矩郡吉田(現北九州市小倉南区)に本拠を構える有力者であった(『北九州市史』)。譲与に至る経緯は明らかでないが、武藤氏から何らかの圧力があったと見るべきだろう。東国出身の有力者が在来の御家人のもとに養子を送りこみ、平和裏に所領を吸収してしまう例は、かなり一般に見受けられる。武藤氏の進出にはおそらく豊前国衙近傍に要地を占めたいという同氏の政治的な思惑があったのだろう。