宇都宮氏や武藤氏のように、本来東国に根拠地を持ちながら幕府から所領を給与されて移動してきた御家人のことを西遷御家人(せいせんごけにん)と呼んでいる。九州は平氏の勢力圏だったために、多くの東国御家人が遷ってくることになったが、もちろん平氏勢力とともに没落することを免れた在地の武士も多数存在した。こうした人々は幕府の支配下に入って新たに御家人となったが、西遷御家人に比べると弱い立場におかれており、国御家人(くにごけにん)と称されるのが一般である。
御家人は荘園や公領を支配するにあたり、幕府から地頭職(じとうしき)と呼ばれる権利を付与されることが多かった。地頭職は荘園領主や国司が幕府の許可なく改変することができなかったから、地頭になるとその立場は非常に強化されたのである。しかし鎮西の御家人たちはこの地頭職を給与されることが希で、名主職(みょうしゅしき)や公文職(くもんしき)といった従来の弱い権利を持つにとどまることが多い。また上位に広大な領域を支配する西遷御家人が据えられることも多く、次第にその家臣となっていく事例も見出される。こうした土着の武士である国御家人は京都平野にも多数存在していたと予想されるが(恵良宏「鎮西・豊前国に於ける在地領主の存在形態」)、現在確認されるのはわずか二例にとどまっている。以下その概略を紹介しておくことにしよう。
豊前から遠く離れた大隅国の御家人禰寝氏は、多くの文書を今日に伝えている(禰寝文書)。このなかに、何故か京都郡の国御家人である都(みやこ)氏関連の史料が伝来しているのである。都という名字は明らかに郡名に由来するものであり、京都郡における伝統的勢力であったと見られる。一四世紀初頭の延慶年間の史料によると、都氏は弥勒寺領大野井(おおのい)荘の田所職および名田三五町・在家一〇宇を所有しており、同荘の有力荘官であったことが分かる。また嫡子が鋤崎(すきざき)を名乗っていることから、大野井の北西に位置する鋤崎(現苅田町)にも支配の拠点を持っていたことが推定される。禰寝文書からは、同氏が鎌倉の最末期まで大野井荘内を支配していたことを知りうるのだが、その後の行方は全く明らかでない。南北朝期に入ると大野井荘に関する史料は多くなるが、そこにはもう彼らの姿を確認することはできず、また文書を伝えた禰寝氏との関係も不明である。弥勒寺領が集中する市域北部を抑える伝統勢力であった彼らは、京都郡司(ぐんじ)の系譜をひく存在であったかも知れない。いずれにせよ都氏は平安期以来、弥勒寺や宇佐宮と繋がり、その所領拡大に関与する在地勢力であったことは誤りないだろう(二章一節三参照)。
都氏とならぶ国御家人は、市域南部の天生田(あもうだ)荘に拠った天雨田(天生田)氏である。その素性は明らかでないが、公文という荘官の地位にあって荘内を抑えるのみならず、田河郡の赤荘にも拠点をもつなど広汎な力を持っていた(本間文書)。一四世紀初頭、赤荘内の田地をめぐって、東国御家人と推測される地頭因幡(いなば)氏に訴えられているが、これは天雨田氏の力が周辺の地頭を脅かすほどに成長していたことの現れだろう。彼らも都氏同様に鎌倉末期に姿を消してゆくことになるが、鎌倉期には侮り難い勢力を築いていたのである(二章一節一参照)。