文永一一年(一二七四)一〇月、モンゴル軍が朝鮮半島から博多へと襲来した。僅か数日のうちに撃退したものの、戦法や戦術の卓越したモンゴル軍に終始圧倒されたこともあり、鎌倉幕府は再襲を恐れて武士を総動員し、厳戒態勢をとったのである。博多湾には元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ばれる石垣を築き(写真2)、西国武士を御家人・非御家人を問わずに動員して防備にあたらせている。また西国に所領を持つ東国御家人に対しては、下向命令が出されており、実際にこれを契機として移住するものが拡大したのである(相田二郎『蒙古襲来の研究 増補版』)。上毛郡の御家人末久(すえひさ)氏が伝えた正安二年(一三〇〇)の文書によれば、豊前国の御家人は博多の西、糸島郡今宿の青木(あおき)・横浜(よこはま)一帯の防塁造営と、同地域の防衛に動員されていた(末久文書、稲葉倉吉「元寇防塁の築造に関する新史料」)。京都平野の武士たちも同地において防衛の任務についていたと考えられる。弘安四年(一二八一)五月に再びモンゴル軍が襲来し、博多湾に攻撃を開始した。いわゆる弘安の役である。翌六月には江南地方の軍勢も合流したが、日本側の強烈な反撃をうけて上陸を果たせず、洋上に漂ううちに暴風雨によって壊滅したことは周知の事実である。
文永・弘安の役において、京都平野の武士がいかに活躍したのか、残念ながら具体的な史実は伝わっていない。しかし彼らが実際に戦闘に参加していたことは確実であり、それは前節で紹介した都氏および天雨田氏が、この戦いの恩賞を獲得していたことから裏付けられる。正応二年(一二八九)三月に鎌倉幕府は弘安の役の恩賞として、肥前国神崎(かんざき)荘(佐賀県神埼郡)を多くの御家人に分け与えたが、この給与対象に両氏も含まれていたのである。天雨田氏は、正和三年(一三一四)一二月に同荘内の田畑・屋敷をめぐって訴訟を行い、鎮西探題の法廷にて勝訴を勝ち取っている。判決を記したその文書は、同地が対モンゴル戦の勲功として天雨田氏に与えられたことを明記しているのである(正和三年一二月一六日「鎮西下知状」本間文書)。
また建武二年(一三三五)六月作成の「東妙・妙法(とうみょう・みょうほう)両寺寺領坪付注文(つぼつけちゅうもん)写」によると「都肥前房跡道意(どうい)」なる者が、神崎荘東郷に三反余の田地を所有していたと見える(東妙寺文書)。この都肥前房は、永仁年間に大野井荘で活動していた都肥前房良秀(りょうしゅう)、その人と推定される(禰寝文書)。東妙・妙法両寺は神崎荘内の律宗(りっしゅう)寺院であるが、この注文を見ると同荘の零細な耕地片を多くの人々から寄進されていたことが分かる。関連文書から、これらの耕地片は、その多くが御家人達に与えられた勲功地で、遠隔所領ゆえに経営に行き詰まり、同寺に寄進されたものであることが分かる。おそらく都氏の所領も同様の経緯を辿ったのであろう。わずか三反余の土地を維持することは難しく、結果として経営を諦めたのではなかろうか。
なお近隣では大隈(おおくま)村(現犀川町大熊)地頭の安種(やすたね)なる人物が、神崎荘に所領を有していたことが知られている(東妙寺文書)。おそらく彼も勲功賞として神崎の田地を給与されていたのだろう。