北条氏勢力の伸長

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 モンゴルの襲来を契機として、鎌倉幕府の実権を掌握していた北条(ほうじょう)氏は、西国の支配を強める姿勢を見せている。それは西国諸国の守護(しゅご)を北条一族へ切り替えてゆくと同時に、得宗被官(とくそうひかん)とよばれる北条氏の家来を重要所領に送り込んで、直接に在地を掌握するというものであった。北部九州と瀬戸内海を結ぶ地勢条件を備えた豊前国は、北条氏にとってまさに必須の要地となったのである(石井進「九州諸国における北条氏領の研究」)。
 豊前国守護は、鎌倉初頭よりこのかた武藤(むとう)氏(少弐(しょうに)氏)が肥前・筑前守護とあわせて歴任していたが、建治年間にその地位を北条氏庶流の金沢顕時(かねざわあきとき)に譲り渡している。そののち金沢氏は、北条嫡流(得宗(とくそう)家)と有力御家人安達泰盛(あだちやすもり)が衝突した弘安八年(一二八五)の霜月騒動(しもつきそうどう)に巻き込まれ、一時逼塞を余儀なくされたが、再び得宗家の信頼を得て、永仁年間から鎮西探題(ちんぜいたんだい)として九州を統括するようになる。金沢氏は実政・政顕(さねまさ・まさあき)が親子で探題となったのちにその任を去るが、豊前守護職は幕府滅亡まで維持しつづけている。すなわち豊前国は鎌倉時代末期の約五〇年間、北条氏が直接に支配する国として、営々と勢力の扶植がなされ、同氏を下支えする勢力がはぐくまれたのである。