とりわけ市域南部は国衙の北に隣接し、また河川・海上交通の要所として様々な機能を保持していたから、豊前国内でもとりわけ重要な拠点と認識されていた。ゆえに一四世紀に入ると北条氏につながる様々な勢力が、次第に京都平野に進出するのである。詳しくは二章一節に譲るが、ここではその概略を紹介しておくことにしたい。
まず守護となった金沢氏の影響力であるが、実政が鎮西探題となった永仁年間、探題を補佐する奉行衆のうちに稗田(ひえだ)四郎次郎なる人物があったことが知られている(『旧記雑録』)。この稗田が市内のそれに該当するとすれば、同地には有力な探題被官がいたことになる。稗田は摂関(せっかん)家領吉田(よしだ)荘に含まれる領域であったと考えられるが、そののち同荘は北条氏の有力庶家大仏(おさらぎ)氏が地頭となっていた可能性が高く(佐田文書)、さまざまな形で北条一族に繋がっていたことが窺われる。
また稲童に所領を持っていた武藤氏庶流も守護金沢氏の被官になっていた(以下、本領である吉田(よしだ)村にちなみ武藤吉田氏と記す)。鎌倉幕府崩壊後に金沢流の糸田貞義(いとださだよし)・規矩高政(きくたかまさ)が豊前・筑前一帯にて武力蜂起するが、武藤吉田氏はこれに参加して共に没落しており、その結びつきは相当に深かったと分かる。モンゴル襲来の後、北条氏が九州へ進出すると、武藤惣領家は一族内で政治的対応が割れていた。当主経資(つねすけ)が北条得宗家との融和を図る一方、その弟景資(かげすけ)は安達泰盛(あだちやすもり)と結んで対立を深めたのである。弘安八年(一二八五)に両者はついに衝突し、景資方は滅亡している(岩門(いわと)合戦)。こうした一族内にあって武藤吉田氏は守護金沢氏と結ぶという選択を行い、惣領家とは独自の道を歩んでいたのである。
北条氏の影響力は、金沢氏のみならず嫡流の得宗家からも京都平野に及んでくる。天生田荘には天雨田(天生田)氏があって力を伸ばしていたが、元応二年(一三二〇)に突如、得宗被官として有名な安東(あんどう)氏に所領を譲与してしまうのである(本間文書)。その結果、天雨田氏は姿を消し、以後安東氏が同荘の支配権を握って勢力を拡大していく。和泉や摂津を拠点として全国的に交通の拠点を掌握しつつあった安東氏は、豊前近傍では豊予海峡を抑える佐賀関を領有しており(柞原八幡神社文書)、九州での勢力拡大を狙っていたと思われる。天生田荘は列島規模で広がる安東氏のネットワークのなかに組み込まれ、北条氏による支配の一端を担うことになったのである。
京都平野南部の北条勢力はこれにとどまらず拡大をしたようであり、天生田の東に位置する平嶋(ひらしま)も幕府滅亡の直前には北条一族の所領になっていたと推定される(鶴原泰嗣氏所蔵文書)。また天生田の西に位置する吉田荘では、前述のように金沢氏の影響力が及びかつ大仏氏が地頭となっていた。このように鎌倉最末期の市域南部は、稲童名・平嶋・天生田荘・吉田荘と北条氏の支配する荘園が並び、国衙を北から抑える構図をとっていたのである。