鎌倉幕府の滅亡

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 元弘三年(一三三三)五月に鎌倉幕府は滅亡を迎える。九州における幕府の拠点であった鎮西探題(ちんぜいたんだい)も、六波羅探題(ろくはらたんだい)陥落の報に接した少弐(しょうに)・大友(おおとも)・島津(しまづ)の諸軍勢に攻められ、探題北条英時(ひでとき)は自刃して果てた。豊前守護であった糸田貞義(いとださだよし)、その兄で規矩郡を本拠とした規矩高政(きくたかまさ)ら金沢(かねざわ)一族は、鎮西探題とともに滅亡することは逃れたものの、翌建武元年(一三三四)に筑前・筑後・豊前の親北条勢力を糾合して蜂起、滅亡を迎えた。豊前守護には久しぶりに少弐氏が復活し、当主貞経(さだつね)が筑前とともに支配する体制を築いたのである。
 北条氏の滅亡が、その影響下にあった当市域に大きな波紋を投げかけたことは言うまでもない。北条氏は得宗家以下、金沢氏・大仏(おさらぎ)氏もすべて滅亡したことで、彼らの所有していた諸荘園の権利は新政権によって没収され、新たな領主に切り替わることになったのである。
 既に述べたように、旧市域には多くの北条被官がいたと推定されるが、そのうちとりわけ注目すべきは、守護金沢氏の被官武藤吉田(むとうよしだ)氏の動向である。稲童(いなどう)を支配していた同氏の惣領頼村(よりむら)は、幕府滅亡こそ無事やりすごしたものの、結局、規矩・糸田方に与して戦い滅んでしまった。ただ一族のうち弟頼景(よりかげ)の一流がこれを鎮圧する側にまわったことで、かろうじて稲童村ほか相伝所領の一部を確保したのである(和布刈神社文書)。おそらく京都平野には、武藤頼村のように北条方に立って姿を消してしまった人々が相当数あったのだろう。在地を支配する有力層は、この混乱のなかでかなり変動したと推測されるのである。
 これに対して北条氏に密着した存在でありながら、巧みに争乱を生きのびたのが天生田(天雨田)(あもうだ)荘の公文安東(くもんあんどう)氏である。その経緯は明らかでないが、公文という荘官としての地位も維持することに成功している。安東氏は和泉国にあった嫡流も滅亡を免れており、一族あげて北条氏を見限った可能性が窺われる。交通・流通に通じた彼らは、各地から集まる情報を冷静に分析し情勢を判断していたのであろう。