足利尊氏(あしかがたかうじ)を中心とする武士勢力と後醍醐(ごだいご)天皇率いる公家勢力の対立から、建武政権は早くも建武二年(一三三五)には崩壊し、再び争乱状況を呈することになった。尊氏は建武三年初頭に関東から京都に入ったものの、陸奥から攻め上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍に敗れて西国へ下った。豊前守護の少弐貞経は武家方として尊氏を強く支援し、尊氏の九州入りに当たっては子息頼尚(よりひさ)を長門に派遣して兵力を提供している。しかし、その間隙をついて大宰府を襲った宮方菊池武敏(きくちたけとし)の攻勢に耐えきれず、同年二月末、貞経は有智山(うちやま)城(現太宰府市)にて自刃に追い込まれてしまった。この戦いには稲童の武藤景村(かげむら)(頼景男)も少弐方として従軍しており、貞経と運命を共にしている(和布刈神社文書)。南北朝争乱の影響はさまざまな形をとりながら確実に京都平野に及んでいたのである。翌三月、筑前多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)に進んだ尊氏らは菊池氏ほかの宮方軍を破って博多に入り、北部九州は武家方のもと比較的安定した状況を取り戻したのである。
尊氏は間髪おかず翌月には上洛を開始する。短時日に京都を回復すると、建武三年のうちには北朝を推戴して室町幕府を発足させた。この東上軍に市域の武士が参加したか否か明らかでないが、田河郡や規矩郡の武士が多数参加していることを踏まえると、その可能性は極めて高い。九州を遠く離れ畿内での戦闘に参加した彼らは、列島規模の政治的変動を強く感じとったことであろう。