鎮西管領・一色氏の登場

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 尊氏は九州を去るにあたり、一族の一色範氏(いっしきのりうじ)を残して九州の統治を委ねた。その役職は鎮西管領(ちんぜいかんれい)と呼ばれるもので、以後一色氏は二〇年以上に亘ってその職に任じたのである。ただ一色氏が幕府から与えられた権限や所領は、非常に限定されたものであり、少弐・大友・島津といった旧来の守護勢力との微妙なバランスのもとに保たれるものであった。暦応三年(興国元、一三四〇)二月に範氏が幕府に送った書状によると(『祇園執行日記』紙背文書)、料国も宛われず、所領も乏少であること、直轄できる軍勢の無いことなどを嘆き、帰洛の許可を求めている(川添昭二「鎮西管領考」上・下)。
 このような状況にあって、当市域内の天生田荘は一色氏の鎮西支配にとって非常に重要な位置を占めていた(二章一節二参照)。範氏書状によれば、その前年の暦応二年に五カ所の所領を幕府から与えられたが、ほとんどが有名無実であり、実際に支配を維持できたのは天生田荘のみと記している。当荘は一色氏の数少ない直轄領として、その脆弱な権力基盤を維持する役割を果たしていたのである。京都平野一帯には、苅田(かんだ)荘・黒田(くろだ)荘(現勝山町)を擁する守護少弐氏や(川添昭二「南北朝時代における少弐氏の守護代について」)、国衙を抑える宇都宮(うつのみや)氏などの影響力が及んでいた。にもかかわらずそうした間隙を縫って一色氏が安定した支配を実現できた背景には、在地を抑える安東氏との密接な連携が不可欠であったと予想される。一色氏は文和四年(正平一〇、一三五五)に南朝勢の圧力に耐えきれず九州を後にするが、同氏による天生田荘の支配は一五世紀末に至るまで続いており(本間文書)、両者の関係性が如何に強いものだったのかを窺わせてくれるのである(山口隼正「『鎮西料所』豊前国天雨田荘と安東氏」)。