豊前国においては、若干の不安定要素を含みつつも、探題一色氏と守護少弐氏による統治のもと、安定した政治状況が維持されていた。こうした関係に大きな変化が生じたのは観応の擾乱(じょうらん)とよばれる室町幕府内部の権力闘争であった。将軍尊氏の執事高師直(こうのもろなお)と尊氏弟直義(ただよし)の対立にはじまった政争は、観応元年(正平五、一三五〇)についに幕府を二分して争う内乱へと発展する。南朝勢力を交えた三つ巴の闘争は、九州において最も激しい状況を呈したのである。擾乱勃発の前年、尊氏の子で直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)が肥後へと下向していた。直冬は、実父尊氏に疎まれ、政権から排除される形で九州に入っており、すぐさま直義方に立って活発な活動を始めている。この直冬の働きかけに応じたのが少弐氏の当主頼尚であった。彼は観応元年末ごろには尊氏方を離れ、直冬方へと転じている。頼尚が直冬方へと転じた一番の理由は、管領一色氏との従属関係を絶つことにあった。少弐氏は大宰少弐という伝統的な地位を帯びていたゆえに他の守護に卓越するとの意識が強く、管領に従属することを嫌ったのである。こうして豊前においても武家方が二分して争う構図となり、京都平野一帯の諸勢力も俄に慌ただしい動きを示してゆく。
いうまでもなく幕府方は、豊前はじめ各地に所在する少弐氏所領を没収した。市域周辺では黒田荘および被官饗庭(あえば)氏の所領であった苅田荘がその対象となり、前者は観応二年(正平六、一三五一)一〇月に大友氏泰(うじやす)へ(大友文書)、後者は文和元年(正平七、一三五二)一一月に田原直貞(なおさだ)へと給与されている(田原文書)。市域内では、元永(もとなが)村領主の元永弥次郎入道なる者が直冬についたと推定され、同村は没収のうえ観応元年末に幕府方の宇都宮公景(うつのみやきみかげ)に与えられた(佐田文書)。元永村を得た宇都宮氏は祓川河口部を抑えることで、その流域一帯を占め、豊前国衙を南北から掌握する態勢を整えたのである。また公景は、ほぼ時を同じくして一色範氏から吉田(よしだ)荘を給与されており(同前)、長峡川流域へも支配を拡大したことが分かる。吉田荘は北条氏跡のいわゆる元弘没収地(げんこうぼっしゅうち)であり、それまで管領一色氏の管理下にあったのだろう。公景は宇都宮庶流の佐田(さだ)氏の祖となる人物であるが、管領を支える重要な軍事力を有していた。彼に対する厚遇はその軍功を賞するものであり、公景もまたこれに応えて一貫して幕府方として活動したのである。
観応二年(正平六)から三年(正平七)にかけての九州の政情は、中央の政局と連動して混沌とした状況を呈していった。観応二年二月、尊氏・直義の間に和睦が成立し、直冬が正式に鎮西管領として認定されると、一色範氏は方策を失って南朝方に降っている。つづく同年一〇月、中央の和睦が破綻し尊氏が南朝方に通じると(正平一統(しょうへいいっとう))、範氏は再び尊氏方に立って直冬に抗するなど混迷の度はますます深まった。しかし観応三年(正平七)二月、鎌倉において直義が毒殺されたことで混乱は漸く終息に向かい、尊氏は南朝との和睦を解消して、直義方の制圧を進めたのである。これを受けて九州における直冬の立場も急激に悪化し、同年一一月ついに九州を離れて長門に脱出、さらには南朝に降ったのである(瀬野精一郎『足利直冬』)。