征西将軍府の進出と少弐氏

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 観応三年(正平七)末の直冬方の急速な消滅は、決して京都平野一帯に安定をもたらすものではなかった。それは懐良(かねよし)親王率いる南朝征西将軍府(以下、征西府と略す)の勢力が著しく伸長したためである。懐良親王は直冬が九州に現れる前年の貞和四年(正平三、一三四八)に肥後の菊池氏のもとに入っており、武家側が一色方と直冬方で抗争している間に肥後の制圧を進めていた。さらに直冬が九州から逃亡すると、少弐頼尚ら直冬党を糾合して筑後から筑前へと進み、文和二年(正平八、一三五三)二月、筑前針摺原(はりすりばる)(現筑紫野市)で一色軍を撃破し、宮方の優勢を揺るぎないものとした。また文和四年(正平一〇)一〇月には、豊後各所を制圧した宮方勢が豊前に入り、宇佐・城井をへて筑前殖木(うえき)(現直方市植木)まで進んでいる。この軍事行動によって宇都宮氏をはじめ豊前国内の武家方も宮方に転じ(木屋文書)、少弐頼尚を守護とした征西府の支配が浸透するのである。こうした宮方の攻勢を受け、一色範氏は博多を維持することも叶わず、ついには長門へ脱出した。ここに九州は宮方の手中に収まり、幕府方は逼塞を余儀なくされるのである。
 さて、文和二年(正平八)から宮方の豊前守護として活動を始めた少弐頼尚は、現地を掌握する守護代に、西郷顕景(さいごうあきかげ)を起用した。西郷氏は宇都宮氏の庶流で、西郷谷(現犀川町)を本拠とする勢力である。顕景は頼尚が幕府方にあったころから臣従しており、豊前における軍事動員などに従事していたことが指摘されている(山口隼正「豊前国守護」)。その活動は京都平野でも確認され、延文元年(正平一一、一三五六)には顕景が延永村に対して香春(かわら)神社の神用米を支払うよう命じている(『太宰管内志』)。こうした守護・守護代としての働きが見られる一方で、彼らは荘園を侵略する存在としても立ち現れてくる。同年、弥勒寺は大野井(おおのい)荘に対する押妨のかどで顕景を南朝に提訴しているが(以下、唐招提寺所蔵八幡善法寺文書による)、この押妨は頼尚の意向を受けたものであることは確実で、そもそも貞和年間に遡る根の深い問題であった。さらにその根底には、天生田荘から北へと勢力を広げていた安東氏の存在があったことを指摘しておかなければならない。安東助阿・生阿(じょあ・せいあ)兄弟は、大野井荘の支配権を握るために守護・守護代の勢力を導き入れ、荘園領主弥勒寺の影響力を低めようと画策していたのである。天生田荘支配においては管領一色氏と結んでいたはずの安東氏は、周辺では少弐氏や宮勢力と繋がり巧みに在地支配の強化に努めていた。こうした在地領主層の自由で融通無碍な動向が、市域北部の弥勒寺・宇佐宮領荘園の秩序を確実に蝕んでいったのである(二章一節三参照)。