征西将軍府の隆盛

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 荘園領主との軋轢を深めていた少弐頼尚は延文二年(正平一二、一三五七)を最後に宮方守護としての活動を停止し、同時に西郷顕景も姿を消している。征西府は頼尚を解任し、代わって翌年には五条良遠(ごじょうよしとお)を豊前国司として派遣した。良遠は懐良親王の側近五条頼元(よりもと)の子で、征西府を支える貴族の一人であった。延文三年(正平一三)一一月、良遠は宇佐神官の訴えを受け津隈(つのくま)荘内弁分次郎丸(べんぶんじろうまる)・三郎丸(さぶろうまる)・小屋敷(こやしき)名の押妨停止を命じており、早速その働きが確認される(益永文書)。一方、頼尚は宮方を見限り、その翌年には幕府方に転じて宮方と対抗する姿勢を示した。すでに管領一色氏は九州を離れていたから、宮方に止まる必然性が薄れていたのである。この年一〇月、頼尚は幕府方の軍勢を糾合して大宰府に兵を挙げ、筑後大保原(おおほばる)(現小郡市)にて菊池武光(たけみつ)率いる宮方勢と衝突している。宇都宮嫡流の冬綱(ふゆつな)(もと高房(たかふさ)・のちに守綱(もりつな))も頼尚方に立って戦ったが、合戦は少弐方の大敗で終わり、ここに征西府は絶頂期を迎えるのである(『太平記』)。
 康安元年(正平一六、一三六一)に入ると、豊前では宮方守護として少弐頼尚の息子頼澄(よりずみ)が登場してくる(唐招堤寺所蔵八幡善法寺文書)。頼澄は父頼尚や兄冬資(ふゆすけ)と袂を分かち宮方に残留していたのである。また守護代には菊池武光の弟武尚(たけひさ)を据えるという特別の措置も講じられ、豊前は国司良遠以下みな征西府の有力者が居並ぶ態勢となった(山口前掲論文)。
 こうした勢力が国衙周辺に入ったことで、京都平野の諸荘園はさらなる混乱に巻き込まれていった。もとより五条氏も菊池氏も豊前に確固たる基盤を持っておらず、彼らの抱える被官に対して充分な給与を保証できなかったと見られる。このころから宮方被官による荘園押妨が頻発しているのは、そうした事情によるものであろう。
 新田田中蔵人(にったたなかくろうど)を初め宮方に連なる人々は、畠原下崎(はたばるしもさき)荘・大野井荘・屋山(ややま)保・草野(くさの)荘など市域一帯の同寺領に対して押妨を繰り返している。同寺側は繰り返し征西府に訴えて押妨停止命令を出してもらっているが、それがどれほどの実効性を持ったのか甚だ疑問である。貞治四年(正平二〇、一三六五)に守護頼澄・守護代武尚までもが押妨に加わると、ついに弥勒寺は神輿を持ち出し、征西府に対して強訴に及んでいる。こうした荘園支配をめぐる混乱は確実に荘園領主の力をそぎ落とすこととなり、在地領主層の動向も相俟って在地の支配秩序は次第に改編されていったのである。
 貞治六年(正平二二、一三六七)七月、京都平野の西隣にあたる香春で幕府方と宮方の大規模な衝突が発生した(川添昭二「中世の豊前香春・香春岳城とその史料」)。幕府方の少弐冬資が挙兵して香春岳城に立て籠もり、宮方は筑前・肥前・肥後の軍勢も動員して攻めている(阿蘇文書)。少弐冬資は頼尚の息子で、京都へ逃れた父にかわって幕府方を糾合する役割を果たしたのである。結果として幕府方は敗北しているが、大野井荘の領有をめぐる訴訟がこの攻城戦のために一時中断となるなど、征西府にとっても総力を尽くした戦いであったことが窺える(唐招提寺所蔵八幡善法寺文書)。この戦いの後、幕府方は再び逼塞を余儀なくされることになるが、新たな段階はもうすぐそこに迫っていたのである。
 
写真3 香春岳
写真3 香春岳(香春町 昭和10年代)