今川了俊の鎮西下向

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 一三六〇年代の九州はまさに征西府の手中にあり、幕府方の活動は極めて限られた状況に置かれていた。文和四年(正平一〇、一三五五)に一色範氏が九州を離れて以降、延文五年(正平一五、一三六〇)に斯波氏経(しばうじつね)が、貞治四年(正平二〇、一三六五)には渋川義行(しぶかわよしゆき)がそれぞれ管領に任じられたものの、退勢を覆すには至らなかった。こうした状況が劇的に変化したのは、応安三年(建徳元、一三七〇)に今川了俊(いまがわりょうしゅん)が管領に任じられてのことである(川添昭二『今川了俊』)。
 了俊は翌四年になると、子息義範(よしのり)を大友氏の拠る豊後高崎(たかさき)城(現大分市)へ、弟仲秋(なかあき)を肥前松浦(まつら)党のもとへそれぞれ派遣し、自らは門司に入って三方向から大宰府を目指した。丁俊は、逼塞していた幕府方を糾合して随所で宮方を駆逐し、同五年(文中元)八月ついに大宰府を陥れたのである。豊前においては宮方勢力も早い段階で撤収したようであり、さして大きな抵抗もなく幕府方に従う大勢となった。豊前守護は探題了俊が兼任し、そのもとで子息の氏兼(うじかね)が実務に当たる体制をとっている。京都平野一帯を含め豊前は比較的平和裡に宮方から幕府方への権力移行がなされており、永きにわたる内乱も終息に向かうと思われたのである。
 しかしそれは思わぬところから裏切られることになる。応安七年(文中三)正月、城井谷を拠点とする宇都宮守綱(冬綱)が突如宮方にたって反旗を翻したのである。伝統的に幕府方であった宇都宮氏が宮方へ転じた理由は判然とせず、一族内部の対立に起因すると考える説や、了俊が宇都宮氏を軽視したことを理由とする説などが出されている(則松弘明『改訂増補版 鎮西宇都宮氏の研究』)。当時、幕府方は宮方と筑後川を挟んで対峙していたから、戦略的にも豊前における叛乱は衝撃をもって受け止められた。了俊は早速に氏兼を派遣し、豊後の田原(たわら)氏・竹田津(たけたつ)氏や豊前門司(もじ)氏などをもって鎮圧にあたらせている。しかし、豊後でも宮方の動きがあって手間取り、最終的に守綱を圧伏したのは同年九月のことであった(入江文書)。戦いは城井谷における籠城戦が中心で、戦火が京都平野に直接及ぶことはなかったと考えられる。しかし宇都宮氏の所領は京都平野にも多く、また人間的な繋がりも濃厚であったから、当市域に及ぼした影響は相当なものであったろう。結局のところ宇都宮氏は降伏し滅亡することは免れた。しかし豊前における指導的な地位から退くことは免れず、新たに登場する大内氏の影響下に取り込まれてゆくことになるのである。