今川了俊(いまがわりょうしゅん)による九州進出にあたり、軍事力の中核を担った大内義弘(おおうちよしひろ)は、防長に隣接する豊前へと影響力を強めていった。義弘が豊前守護となった時期には諸説あるが、康暦二年(一三八〇)とする見解が最も有力である(山口隼正「豊前国守護」)。天生田(あもうだ)荘公文(くもん)の安東(あんどう)氏に対して、その知行を安堵したことが、守護としての活動の初見とされている(本間(ほんま)文書)。義弘が了俊に代わって新たに守護に任じられた背景には、了俊の庇護者であった幕府管領細川頼之(ほそかわよりゆき)の失脚という中央の政治情勢があった。頼之は、その前年に斯波義将(しばよしまさ)らによって幕府の中枢から駆逐され、領国の四国へと下っていたのである。ただ京都郡に関しては、至徳年間(一三八四-七)に限り了俊が守護権能を維持していたようであり、苅田(かんだ)荘(現苅田町)地頭職を田原氏能(たわらうじよし)に給与するにあたって、幕府は了俊に対して執行命令を出している(入江文書)。こうした変則的な状況が何によるものなのかは今のところ明らかでない。
義弘による領国支配の体制は着実に進み、京都平野においてもその足跡を見出すことができる。明徳元年(一三九〇)になると、義弘は大内氏の氏寺である氷上山興隆寺(ひかみさんこうりゅうじ)(山口市)へ久保荘内の田地を寄附したり(興隆寺文書)、大野井(おおのい)荘の代官職を被官杉重明(すぎしげあき)へと給与するなど(杉隆泰家文書)、在地への影響力を強めていた。また宇都宮(うつのみや)氏庶流佐田(さだ)氏の所領であった元永(もとなが)村は、田川郡の伊方(いかた)荘とともに大内氏によって押妨されていたようであり、探題了俊は佐田氏へ返付するよう義弘に求めている(佐田文書)。謀反により力を失った宇都宮嫡流とともに、探題方であった佐田氏もまた弱体化し、大内氏による在地支配強化の影響を受けていたと見られる。このころ今井津(いまいづ)が港湾としての機能を強める過程にあったから、その一角を占める元永を掌握することは大内氏にとっても重要と認識されていたのだろう。在地有力者、守護、探題のいずれもが、その地勢的重要性を認識していたのである。