今川了俊の失脚

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 応永二年(一三九五)閏七月、それまで二〇年余に亘って九州探題の地位を占めてきた今川了俊が突如更迭された。この更迭は、中央政局の様々な情勢変化に加えて、了俊排除を狙う大内・大友両氏の思惑が絡んだものであった。義弘にとってみれば、自らの勢力伸張のためには、これまでつき従ってきた探題了俊の存在が障害と映るようになっていたのであろう。後に了俊は義弘が探題の地位を狙っていたと述懐しており、その推測を裏付けてくれる(『難太平記』)。翌年、了俊の後任として九州へ下ってきたのは、かつての探題渋川義行(しぶかわよしゆき)の息満頼(みつより)であった(川添昭二「渋川満頼の博多支配及び筑前・肥前経営」)。彼は探題として赴任するにあたり豊前守護職を給与されたと佐田氏などに伝えているが(佐田文書)、実際のところそうした事実は確認できず、そのまま義弘が守護を務めている。了俊にくらべ実績も実力も劣る渋川氏の着任は、義弘にとっては都合良く、大内氏の政治力は豊前のみならず筑前にも及んでいくことになるのである。
 防長や豊前に加えて、義弘は明徳(めいとく)の乱を通じて山名(やまな)氏の旧領和泉・紀伊も併せ持つ大大名へと成長を遂げていった。これに伴って大内氏は次第に幕府から警戒されるようになり、応永六年(一三九九)ついに将軍足利義満(よしみつ)の挑発に乗って和泉国堺(さかい)に挙兵した。鎌倉公方(かまくらくぼう)足利満兼(みつかね)ほか幕府に不満を抱く人々の呼応を頼んでの挙兵であったが、続くものは少なく、結局和泉の堺に立て籠もり滅亡を迎えたのである。義弘滅亡によって豊前を含む北部九州の政治的な力関係は大きく揺らぎ、しばし混乱が続くこととなった(佐藤進一『南北朝の動乱』)。