大内義弘の死後、幕府はその弟で恭順の意を示した弘茂(ひろしげ)を後継として認定し、防長の守護職を給与した。しかし留守として防長に残っていた末弟の盛見(もりみ)は、この決定を容認せず幕府および弘茂に徹底抗戦の体制をとり、応永七年(一四〇〇)には交戦に及んでいる。この間、豊前守護は探題渋川満頼が得たようであり、満頼は佐田親景(ちかかげ)に対して市域内の稗田(ひえだ)荘および元永村を安堵している(佐田文書)。大内氏のもと支配の回復がままならなかった元永ほかの領有について、佐田氏は渋川氏に働きかけたのであろう。しかし同時期に渋川氏と対立関係にあった少弐貞頼(しょうにさだより)も、規矩郡にて被官筑紫(ちくし)氏に所領を給与するなど(筑紫古文書)、守護に近い動きを示している。盛見による抗戦は防長から豊前へも拡大しており、政情不安のなか守護権は明確に定まっていなかったかに見受けられる。盛見と弘茂の戦いは、応永七年一二月に弘茂の滅亡という形で決着した。幕府もこうした情勢を追認せざるを得ず、応永一一年には盛見を赦免し防長の守護として認定したのである。
大内盛見が豊前支配を実効あるものとするのはそれからやや後のことで、少弐貞頼が探題渋川氏に反旗を翻した段階に求められる。もとより肥前千葉(ちば)氏内部の紛争から始まった両氏の抗争は、少弐氏と菊池氏による反探題連合を生み出すこととなり、筑後・肥前・豊前の広範囲にわたる戦闘へと発展した。この戦いに盛見は探題方として参戦し、豊前において反探題軍の鎮定に当たっている。反探題軍は応永一二年五月ごろから田河郡内で活発に軍事活動を行っており、同年一一月までには猪岳(いのだけ)(大坂山)を中心として香春岳(かわらだけ)城および馬ヶ岳(うまがたけ)に布陣していたことが知られている(詫摩文書)。具体的にどのような人々がここに立て籠もったのかは明らかにならないが、近辺の反探題方もこれに参加していたのであろう。いずれにせよ戦闘は田川・京都・仲津の三郡にまたがる激しいものであったから、当市域も戦場として巻き込まれた可能性が高い。盛見は探題の指揮のもと、大きな被害を出しながらも一二月には猪岳を陥れ、これを契機に豊前支配に復帰しているのである。盛見が豊前守護に任じられた詳細な時期は不明であるが、おそらくこの戦いの前後に求められるであろう(川添昭二「中世の豊前香春・香春岳城とその史料」)。以後、大内氏による豊前支配は再び強化されていったのである(松岡久人「大内氏の豊前国支配」)。