盛見は京都平野でも所領の給与や安堵などを活発に行っており、その影響力の片鱗を窺うことができる。応永一三年(一四〇六)には久保(くぼ)荘内二〇石分を被官小野資宣(おのすけのぶ)に給与し(『萩藩閥閲録』小野貞右衛門文書)、同一六年には下毛郡三尾母(みおも)(現耶馬渓町)にあった楞厳寺(りょうごんじ)に対して宮市(みやいち)を給与している(豊後新田文書)。また大野井荘では大内氏によって得分の接収が行われていたようであり、応永一八年その返還が荘園領主である石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)内善法寺(ぜんぽうじ)に約束されている(唐招提寺所蔵八幡善法寺文書)。猪岳の攻防戦のなかで、あるいは同荘の年貢が戦費として接収されていた可能性がある。なお天生田荘では、応永二三年に領主一色(いっしき)氏から在地の安東氏に対して公文職の安堵がなされているが、これも大内氏による何らかの外護があってのことと考えられるのである。
応永年間を通じて盛見が安定した支配を維持したことで、京都一帯の商工業は著しい発展を遂げ、市域においては今井津がその存在感を高めていった。とりわけ今井津内の金屋(かなや)に居住した鋳物師集団の活躍はめざましく、彦山(ひこさん)大講堂の鐘を初めとして(浄喜寺所蔵、口絵参照)、豊前にとどまらず周防や筑前からの発注にも応えていたことが知られている(二章二節二参照)。後々にいたる同津の繁栄は、この応永年間に基礎が固められたと見てよい。またこうした新興都市に住む人々の信仰の拠り所として、新たに登場したと考えられるのが時宗寺院である。永享年間以降の史料になるが、元永に光福寺(こうふくじ)と願成寺(がんじょうじ)という二カ寺が見え、ともに大内氏が山口に建立した時宗寺院善福寺(ぜんふくじ)の末寺になっていたと分かる(善福寺末寺注文)。こうした関係を見ても大内氏のもとで都市の成長が図られたことが窺えよう。なお願成寺については、天生田の公文安東助阿(じょあ)を願主と記しており、その活動時期から考えて、同寺の創立は一四世紀末に遡ると思われる。
応永末年になると、盛見は豊前守護として宇佐宮(うさぐう)の復興に尽力し、鎌倉末期より断絶していた造営の実施や神事の復興に努めている。これは豊前を統治するものとしての正当性を意識した行為であったろう。宇佐宮・弥勒寺(みろくじ)領の集まる当地域においても、さまざま形で動員がなされたようであり、応永三〇年の宇佐放生会には津隈(つのくま)荘の弁分(べんぶん)に役夫一〇名の供出を求めたことが知られている(矢野文書)。大内氏は伝統的な権威を重んじる傾向が強く、またそうした権威を利用して自らに都合の良い支配秩序の構築に努めていたのである。