盛見の敗死

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 盛見が守護としての正当性を追求していたちょうどそのころ、再び少弐氏と探題渋川氏の対立が深まっていた。ついに応永三二年(一四二五)に少弐満貞(みつさだ)は菊池兼朝(かねとも)を誘って蜂起し、探題渋川義俊(よしとし)を博多から駆逐した。在京していた盛見は長駆九州に戻り鎮定にあたったが、以後北部九州をめぐる情勢は極めて不安定に推移していく(川添昭二「九州探題の衰滅過程」)。
 こうした危機的な状況を打開するため、幕府は筑前国を幕府直轄領とし、その代官職を盛見に与えることで大内氏を支援しようとした。しかしながら、この措置は、古くから筑前に多くの権益をもっていた大友氏の当主持直(もちなお)の反発を招き、かえって緊張が高まってゆく。大友氏は鎌倉期以来、怡土(いと)荘や香椎(かしい)ほか博多近辺の要衝を抑えており、探題渋川氏の没落後には博多を窺う姿勢を見せていた。そこへ幕府の後見を得た大内氏が勢力拡大を図ったことで、その対立が顕在化したのである。
 永享二年(一四三〇)、両者がついに武力衝突すると、大友・少弐・菊池の連携が成立し、大内氏および同氏が擁立する探題渋川満直(みつなお)と戦う構図が完成した。大友持直はもとより幕府に抗う意志は持っておらず、幕府もまた大内・大友間の和睦斡旋に意を用いていた。しかし翌永享三年六月末、盛見が筑前国怡土郡萩原(はぎのばる)(現前原市)にて反大内軍の急襲によりあっけない最後を迎えたことで、北部九州はさらなる混迷に入ってゆく。盛見の突然の死によって大内勢は総崩れとなって九州から引き上げ、豊前にも大友・少弐の勢力が侵入するのである。