大内持世の登場

73 ~ 74 / 898ページ
 永享三年(一四三一)後半には京都平野にも大友勢が侵入していた。同年一〇月に大友持直は、京都郡内五〇町を規矩郡内の田地とともに重臣田原(たわら)氏に預け置くなど(入江文書)、その活動が窺われる。田原氏は豊後国東に本拠を持つ一族で、南北朝期以来、苅田荘を初め京都郡と関わりを持っていたから、豊前進攻には主導的な役割を果たしたのであろう。
 盛見が敗死したのち、大内家内部では家督を巡って混乱が生じていた。後継者に擁されたのは、ともに義弘の子に当たる持世(もちよ)と持盛(もちもり)であった。当初は弟持盛が跡継ぎと見なされていたようであるが、幕府と大内氏の交渉の過程で持世が家督と認められ、持盛には長門守護が与えられることになった。この決着に持盛方は強い不満を抱き、翌永享四年二月、ついに遠征先の豊前において持盛は持世を襲っている。持世は長門と石見の国境まで逃亡を余儀なくされたが、山名氏などの軍事的支援を得て勢力を回復し、翌月には持盛を周防から没落させることに成功した。しかし九州へ逃れた持盛は大友以下の反大内勢力と結んで激しく抵抗するに至り、状況はさらに深刻になったのである(佐伯弘次「大内氏の筑前国支配」)。
 幕府は九州の安定を図るため、大友氏から筑後守護職を取り上げて菊池氏に与えるなど離間工作を進めた。さらに大友氏家督を持直から奪い、一族の親綱(ちかつな)に与えることで、同氏の分裂を図っている。永享五年(一四三三)三月、大友・少弐に対する治罰(ちばつ)命令が幕府より持世に与えられると、持世は満を持して九州へ軍を進め、翌四月には豊前篠崎(現小倉北区)において弟持盛を滅ぼすことに成功した。さらに同八月ついに少弐満貞を筑前秋月(あきづき)城(現甘木市)に追い込んで討ち果たし、豊前一帯は漸く安定を回復したのである。
 この後も大友持直および少弐満貞の子嘉頼(よしより)の抵抗は続き、筑前や豊後では繰り返し抗争が続いた。永享六年には探題渋川満直が筑前で少弐方に敗死するなど事態は流動的であったが、同八年六月に持直の拠っていた豊後国姫岳(ひめだけ)城(現臼杵市)が落城すると、混乱は次第に終息に向かってゆく。大内と少弐の闘争は依然として筑前・肥前方面で継続していたが、永享一二年に至り両者は漸く和睦を結んだ。詳細は不明ながらこの年二月、持世は嘉頼の赦免を幕府にとりなしており、嘉頼が赦されることで、両者には一応の和平が成立したのである(森茂暁『満済』)。
 以上の永享年間を通じた北部九州の混乱のなかで、当市域の動向はあまり明らかにならない。度重なる豊前での戦闘は、京都平野にも相当の影響・混乱を与えたに違いない。しかしそうした最中でも今井津金屋に拠る鋳物師(いもじ)集団は相変わらず多くの作品を鋳造している。元永村妙見社(みょうけんしゃ)や遠く宗像郡津屋崎(つやざき)の奴山縫殿(ぬやまぬいどの)神社の梵鐘を作成するなど、幅広い活動が目に付くところである。領主層の動向がほとんど不明であるのに対して、こうした都市民の活動がめざましいことは極めて印象的である。戦乱は一方で戦場となる村落や農地に荒廃をもたらすが、他方では兵站(へいたん)のための生産や流通を促すという面を持っている。長期にわたる戦乱のなかで、今井津はその生産機能を高め、おそらく流通においても相当に機能を強化していたのだろう。後に海賊として登場する同津の水上勢力も、このころ成長を遂げていたものと推測されるのである。