大内政弘

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 大内持世(もちよ)が結城合戦の勝利の宴で非業の死を遂げた後、盛見(もりみ)の子教弘は大内家の家督を継いだ。教弘は寛正四年(一四六三)に勃発した伊予国守護の河野通春(こうのみちはる)と管領細川勝元(かんれいほそかわかつもと)の合戦に通春を応援するため、寛正六年(一四六五)伊予国に出陣し、船中で病に倒れ、興居島(ごごじま)(愛媛県松山市)にて死去した。大内教弘(のりひろ)の子政弘(まさひろ)が家督を相続し、周防国、長門国、安芸国、石見国、豊前国、筑前国六国の守護となった。
 応仁元年(一四六七)一月、足利将軍義政(よしまさ)の後継をめぐって弟義視(よしみ)と実子の義尚(よしひさ)の間に継嗣問題が起こった。将軍家の家督相続をめぐる争いが、その頃最も権勢のあった細川勝元と山名宗全(やまなそうぜん)の反目および斯波・畠山両家の相続争いとからみあったのが原因で、多くの武将が京都の東西に分かれて戦った。これが世にいう応仁の大乱である。荘園領主たちは、日本国がことごとく公方様の御下知に応じない状態に、恐怖を持った。
 大内政弘は山名宗全の招きに応じて、応仁元年八月に二万五〇〇〇の大軍を率いて上洛した。山名方の劣勢を一気に逆転した。その後も諸国に広がった戦乱は絶えることがなかった。政弘は文明九年(一四七七)まで前後一一年間、山口を離れて京都に滞在した。