文明元年(一四六九)、東軍の将軍足利義政と管領細川勝元は、西軍の最強軍団を率いる大内政弘の足元をすくおうと、大内政弘の分国を攪乱する戦略に出た。細川勝元は応仁二年(一四六八)一〇月に「大内政弘の分国やそれに味方する者たちの領地を討取り次第、申出によって与える」ことを触れ出している。
前筑国守護代で政弘の伯父である大内掃部頭教幸(のりゆき)を長門国守護に任命するなどして誘い、仁保加賀守盛安(にほかがのかみもりやす)とともに長門国赤間関(下関市)に挙兵させた。さらに、対馬に亡命していた少弐教頼(しょうにのりより)の子頼忠(よりただ)に旧領筑前国の守護職を与え、対馬島主宗定国(そうさだくに)を従え博多を攻めさせた。豊後国大友政親(おおともまさちか)父子にも大内政弘討伐を命じ、大友親繁(おおともちかしげ)に豊前国守護を与えるなどいろいろと策を弄している。