大内道頓、馬ヶ岳で敗死

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 大内教幸(のりゆき)について『犀川町誌』は次のように述べている。
 文明(ぶんめい)元年一二月、大内道頓(どうとん)(教幸)と仁保加賀守盛安は周防国鞍掛山(くらかけやま)(山口県玖珂町)で、留守を預かる陶弘護(すえひろもり)と戦って敗れ、安芸国に移り、さらに石見国の吉見信頼(よしみのぶより)の支援を得て、長門国へ入り、阿武郡(あぶぐん)で陶弘護・益田貞兼と戦って敗れ、豊前国へ遁れた。文明二年(一四七〇)正月二五日、馬ヶ岳において道頓は子の加嘉丸(かがまる)と共に自刃したとの『大内氏実録(おおうちしじつろく)』を紹介し、さらに、『防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)』は、文明元年九月二四日、謀反により馬ヶ岳において自刃したとし、『歴代鎮西志(れきだいちんぜいし)』は陶・益田・紀伊(城井)(きい)・長野の大軍に包囲され、文明元年一二月、数回防戦したが、仁保加賀守盛安(弘直とある)が戦死し、道頓も妻子を殺したあと自殺したと記している。しかし、この頃、豊前国は大友親繁によって占領されており、道頓も親繁も東軍として行動していることを考えれば、矛盾していることに気付くであろう。
 
写真5 馬ヶ岳城
写真5 馬ヶ岳城