『犀川町誌』は、奈良県興福寺の『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』を紹介し、大内道頓の自刃について従来の諸説に疑問を投げかけるとともに、妥当な結論を引き出している。
文明二年と思われる二月九日付で、内藤中務丞武盛(たけもり)、豊田大和入道元秀(もとひで)、杉三河守重隆(しげたか)、杉豊後守弘重(ひろしげ)、仁保加賀守武安(たけやす)、問田備中守弘縄(ひろなわ)、陶五郎弘護(ひろもり)の連名で吉見信頼へ宛てた手紙には、公方義政様へ忠節を致せという管領細川勝元様(東軍)の手紙を頂きましたが、大内道頓は老齢であるから、子息の加嘉丸を今後は奉公させることで一味同心いたしますので、管領様にはこれを取り次ぎ、公方様の私信と幕府の安堵状(あんどじょう)を早急に出してくださるようにして頂きたい、と記している。
道頓勢を各所で討ち破ったという陶弘護の名が差出人の中に見え、政弘方陶弘護がなぜ東軍方に一味同心しているのか理解に苦しむところである。この頃の段階では、留守を預かった陶弘護らが政弘の領国を維持していくため、意図的に道頓を東軍方として行動させたのであろうか。道頓には解決しなければならない不明な点だが、宇佐郡には道頓一族にまつわる言い伝えもあり、豊前国とゆかりの深い人物であることは間違いない。