東軍との単独講和を結んだ大内政弘は、文明八年(一四七六)に北部九州に陣取った少弐勢や大友勢などへの反撃を本格化させた。
佐田因幡守忠景(さたいなばのかみただかげ)を初めとする宇佐郡衆は周防国に逃れていたと見え、三月二七日に周防灘を渡って豊前国瀧池山(所在地不明)に陣取り、京都郡馬ヶ岳城と田川郡岩石城(がんじゃくじょう)に立て籠もる敵(大友親繁、少弐政尚か)の討伐を開始した。豊前国守護代杉伯耆守勝弘(すぎほうきのかみかつひろ)が在京で留守なので、大内政弘は、宇佐郡衆の中から大将を出すよう佐田因幡守忠景に求めている。忠景はこれに従ったと見え、六月一三日には政弘は宇佐郡衆に感謝状を与えている。