大内政弘は、五月二九日の除(行橋市覗山)合戦で、多数の敵を討ち取ったことを褒めて、宇佐郡衆に感謝状を与えている。
従来、除は宇佐郡院内町余に当てられてきた。除も覗も「のぞき」と発音されることから、除は行橋市大字馬場字覗すなわち覗山(のぞきやま)に当てることができる(『門司・小倉の古城史』)。朝鮮の『成宗康靖大王実録(せいそうこうせいだいおうじつろく)』の文明八年の項に、豊前国八郡のうち少弐と大内が各四郡ずつ支配していたが、大内が少弐の分をも支配した。少弐政尚(しょうにまさなお)は旧領を回復すべく宗職盛(そうもともり)、宗国久(そうくにひさ)ら兵四〇〇〇を率いて豊前国に侵入し、古城(馬ヶ岳城、岩石城か)に立て籠もったので、大内氏の代官陶弘護が兵三〇〇〇を率いて新城(行橋市覗山城か)を築き対陣し、五月の合戦で大友方六〇名、少弐方六名の死者を出したが勝負はつかなかったと、この間の事情を記している。