文明八年八月には、大内道頓の被官内藤藤左衛門尉(ないとうふじざえもんのじょう)と仁保加賀守盛安が豊前国内で合戦を行う事態となった。これに対して八月一九日に、室町幕府奉行人飯尾元連、布施英忠の連名で大友政親と大内道頓(教幸)それぞれに合戦を止め和睦させるように書状が出された。
政親らの調停で内藤藤左衛門尉と仁保加賀守盛安の争いは治まった。ところが、少弐方が仁保加賀守盛安を殺害したため国中が混沌とした状況になってしまった。内藤氏に加勢した者たちは合戦を止めたけれど、九州大乱の基になりはしないかと心配していることを、文明九年(一四七七)一二月一五日付の大友政親から勝光寺へ宛てた書状では危惧している。東軍内部の足並が乱れたことが分かる。