文明一〇年(一四七八)九月、公方と単独講和を結んで帰国した大内政弘が大宰府に入ると、北部九州の城井越前守俊明、国分寺住持、馬ヶ岳城督右田弥三郎弘量(みぎたやさぶろうひろかず)、佐田因幡守忠景、仲間若狭守盛秀(なかまわかさのかみもりひで)、彦山座主頼有法印と子息帥律師(そちりつし)らの国人衆が祝言を述べに出頭してきた。
同年一〇月三日、少弐政尚に与力していた仁保新左衛門弘名の頸が、筑前国守護代陶弘護によって福岡市土居の称妙寺門前に三日間さらされた。彦山座主(ひこやまざす)頼有法印の計略によって捕えられたという。
戦後処理であろうか、大内政弘は豊前国の国人被官に安堵状を発給するなど救済措置がとられている。
文明一〇年八月二七日に、大内義豊(よしとよ)へ豊前国宇佐郡や京都郡二塚などを預け、知行させている。
文明一二年(一四八〇)二月一六日に、楞厳寺(りょうごんじ)住持へ仲津郡立石、香丸両名と宮市の内の一部、内田法橋跡、上毛郡牧菊丸八町などの寺領を安堵した。この楞厳寺は下毛郡三尾母にあった三恵山楞厳寺である。犀川町城井馬場にも楞厳寺があり、周辺に二メートルを超える五輪塔や宝塔など注目すべき仏教遺産が多数見られる。
文明一二年一二月一三日には、安東肥後守俊国(あんどうひごのかみとしくに)へ仲津郡天生田荘の一部を恩賞として与えている。
仲津郡内西郷など遠江守給地分坪付も同様な意味を持つのである。
文明一〇年一〇月一〇日、大内政弘は文明元年以来周防灘を渡って長門国へ遁れていた筑前国の人々(被官、国人)に米銭借物の返済を免除する徳政令(とくせいれい)を出している。豊前国の被官や国人にも同様の処置が取られたものと思われる。