『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』は、応仁の頃の豊前国の様子を、豊前州には八郡あり、水田は一万三二七八町二段あると記している。
応仁(おうにん)元年に、豊前州蓑島海賊大将玉野井藤原朝臣邦吉(たまのいふじわらあそんくにきち)は使者を朝鮮へ遣わせた。さらに、同年に豊前州彦山座主黒川院藤原朝臣俊幸(ふじわらあそんとしゆき)の使者が朝鮮に行ったことが記されている。『海東諸国紀』は、彦山座主俊幸が大友殿の配下であることも記している。この他にも、宗像朝臣氏郷、筑前州冷泉津(ちくぜんしゅうれいぜいのつ)尉兼内州太守田原藤原貞成、筑前州冷泉津藤原佐藤四郎信重、名島櫛嶋両島太守藤原縄繁、筑前州政所秋月太守源成直、筑前州麻生藤原信など在地領主級(国人衆)の人々の名が記されている。彼らは盛んに大陸との貿易を行って大きな利益を得た。樟脳(しょうのう)、犀角(さいかく)、蘇木(そぎ)などの南海産の品々と絹織物、刀剣、扇子などの工芸品であった。輸入品は木綿が中心で、銅銭、人参(にんじん)や虎皮などであった。