商業の発達や段銭(たんせん)の徴収など貨幣の流通拡大が背景となって、明国から多量の銅銭(永楽通宝(えいらくつうほう)、宣徳通宝(せんとくつうほう)など)が輸入された。しかし、明国は多量の銅銭の流出に経済的な混乱を危惧し、銅銭の持ち出しを禁止するに到った。日本国内では銅銭が不足し始め、本来の厚さや分量を満たさない一文銭(私鋳銭)が国の内外で鋳造され、広く流通するようになった。私鋳銭(しちゅうせん)は鐚銭(びたせん)とも言い、貨幣経済を混乱させた。
大内氏では、延徳(えいとく)四年(一四九二)三月に「豊前国中悪銭事」というお触れ書きを出した。前年より豊前国において悪銭が流布しているので、取締りを厳重にせよ、禁制を知らないと申す者があれば、その所の給主や地下役人の落度として、その給地や役職を没収せよと、郡代、段銭奉行に命じ、誓約書を提出させている。さらに、大内氏は、段銭の徴収に当たって一〇〇文のうち二〇文は永楽通宝か宣徳通宝で収めるよう定めている。売買においては一〇〇文のうち三〇文は良銭でなければならないと定め、貨幣経済の安定を計っている。