政親と親豊の対立

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 大友政親は、応仁の乱の初期は大内政弘に協力的で少弐教頼の撃退に手を貸したが、政親の父親繁の意向に沿って政弘と対立する東軍の細川勝元に与し、豊前国・筑前国へ攻め込んだ。文明一〇年(一四七八)頃、大内政弘が北部九州の分国の奪回に成功した。
 豊後国では、文明一七年頃から大友政親・親豊(材親)・義右(おおともまさちか・ちかとよ(きちか)・よしすけ))の間に深い亀裂が生じていた。
 この亀裂の原因について、文明一八年と思われる四月三〇日付で、政親から田原親宗と思われる人物へ宛てた書状に、親豊は、文明七年の日田七郎親胤(ちかたね)らの謀反は私たちの一味だと明らかにし、さらに、すべての原因が大聖院宗心(だいしょういんそうしん)の件にあることを述べ、それに対する対応が述べられている。大聖院は大友親綱の法名であるが、その子が親綱の後世を弔うために出家して大聖院宗心と称した。いずれのことも、大友家の家督相続に絡む事柄である。この件については文明一九年(一四八七)四月の永弘氏輔覚書の裏に、大友殿親子の御弓矢(合戦)のことが記されている。御親父は政親、息子は親豊である。親豊は豊後を落ちて山口の伯父にあたる大内政弘を頼っていったと、記されている。親豊の母は大内政弘の妹であるから、豊後を落ちたのは親豊である。森猛氏は、親豊の山口落ちは政親の意を請けてのことのようである、としている。延徳三年には仲直りが成立して帰国したようである(「九州西瀬戸中世史論巧」)。