政親・親豊父子の対立は親繁から政親への家督相続に絡んだ反目であったが、一回目の不和はその後も尾を引いていたのであろう。永弘文書によると、明応五年(一四九六)には豊前守政親・義右(親豊)親子の不和がふたたび表面化する。政親は子義右を毒殺したとのうわさが流れたが、史実は、明応五年五月二七日、義右は後継者のいないまま二八歳という若さで病死した。また、父政親は筑前国立花城におもむき、少弐政資から筑前国を奪還しようとしたのであろうか。豊後国臼杵より船出したところ、赤間関(下関市)で大内氏の家臣杉信濃守に捕らえられ下関市舟木地蔵院に幽閉されたが、自害した。明応五年の父子の不和の原因は十分に解明されていないが、山口の大内氏のもとにあった大聖院宗心の影が見え隠れし、市河親清、内宮内助、田北七郎兵衛、田原中務丞、小原新四郎らが画策したようである。