明応八年七月二五日、再び大内勢は渡海し、所々で合戦にいたった。下毛郡寒田(築城郡寒田(さわだ)か)に至り、被官の者一人の頸を討ち取って杉弘固(ひろもと)の陣所に送った。一〇月上旬、宇佐郡院内衆が力を合わせて妙見城を築城し立て籠もった。豊後一国の大軍勢が到着し剣山に陣取った。豊後勢は妙見城を攻めずに戸次、田原衆、木付、大神などの軍を残して、豊前国西部の大内方を撃退した後、妙見城に総攻撃をかけてきた。佐田泰景らは捕らえられて豊後国府内に幽閉された。明応九年正月一〇日夜半に府内を脱出し、昼も夜も食事をとらず佐田菩提寺城に逃げ帰った。さらに、長門国赤間関に亡命していた豊前衆と合流した。