文亀(ぶんき)元年(一五〇一)七月二三日に京都郡馬ヶ岳北麓で、大内勢は大友勢と少弐勢の両軍をことごとく攻めている。大内方門司弥二郎は佐伯陣に攻め込んでいる。大内軍は神代紀伊守貞総(さだふさ)が馬ヶ岳城督として指揮を執ったようである。大友方は中嶋左京亮安通(さきょうすけやすみち)、元重大炊助繁弘らが戦死している。佐伯陣(さいきのじん)の地名は今も馬ヶ岳の東側に残っている。
双方多数の死傷者を出し膠着状態が続くなか、文亀元年九月には前将軍義材(よしき)(義稙・義尹(よしただ))の命を受けた飯尾近江守、松田散位の働きで和睦が成立し、大内勢、少弐勢は兵を引き上げたようである。
これによって前将軍足利義尹と大内義興の関係は深まった。
京都では細川政元が殺害され、情勢が変わり、政元の養子高国によって、前将軍義尹が招かれた。
その後も義尹の諸国流転はつづくが、永正五年(一五〇八)正月に大内義興は足利義尹を奉じて上洛し、細川高国(たかくに)を管領とした。大内家は三管領家ではないため、義興は管領代の職として、約一〇年間幕政を牛耳った。大内氏の全盛期の到来というべきであろう。