戦争の激化にともない要所に城や陣が造られた。明応八年(一四九九)には宇佐郡妙見岳に妙見城が、大永(だいえい)二年(一五二二)には京都郡勝山町に障子ヶ岳城(しょうじがたけじょう)が造られる。城拵(しろこしらえ)や陣夫役のために、しばしば農民が徴発された。
「就宇佐宮御作事方條々御法度事」には、宇佐郡中の兵役と宇佐宮祭事などの人夫について村々で何事もない時は普通に仰せ付ける、院内衆が京に兵役ででかけて留守以来、祭事などの人数を集めるのに難渋しているからと言って、すでに障子ヶ岳御城に勤番している者に宇佐宮社用人夫も負担させていたが、もしこれを守らない時は元のように城拵を申し付ける、と書きとめている。
大永三年(一五二三)七月一四日、大内氏奉行人杉興重は宇佐郡中寺社領の陣夫役免除の訴えを退け、陣夫日数の三倍の社用人足を勤めるよう宇佐宮神官衆に告げている。
享禄五年(一五三二)と思われる三月八日付、障子ヶ岳城督沼岡敦定(ぬまおかあつさだ)から長岡実勝(ながおかさねかつ)へ宛てた感謝状には、父長岡盛貞(もりさだ)は遠田石見守弘常(おんだいわみのかみひろつね)に随って、亀尾御城(かめおノおしろ)、妙見尾城(妙見城)に勤番、特に享禄(きょうろく)四年から今年まで障子ヶ岳城に勤番していたことへの感謝が記されている。
障子ヶ岳城は豊前国田川郡と京都郡の境に造られた城である。少弐勢が筑前国から京都平野へ侵入するのを防ぐ要の城である。