朽網親満の乱と道場寺

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 朽網親満(くたみちかみつ)は、大友能直に従って関東より下向し直入郡朽網郷を根拠とした朽網氏の一族である。親満は明応八年頃から永正八年頃まで加判衆を務めたが、大友義長の勘気に触れたのであろうか。加判衆から外された親満は豊後での挙兵に失敗し、永正一二年(一五一五)八月二六日より父子とも府中(大分市)に幽閉された。永正(えいしょう)一三年には「陰謀人」として処罰されている。親満が「陰謀人」とされた理由は、永弘氏輔(ながひろうじすけ)、市河親泰(いちかわちかやす)、得永新左衛門らと連絡をとり、大友親安を廃し大聖院宗心を大友家督にしようとしたことによる。
 親満一党は各地に散り散りとなった。宇佐宮の下宮永弘家に、親満等と道場寺のことが書かれた文書が残っている。文書では道陽寺と書かれているが、道場寺の誤記とされ、今日の行橋市道場寺(どうじょうじ)と解されている。断片であるが、永正一二年頃の仲津郡の様子がよく分かる。