挙兵の失敗

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 永正一三年旧冬一一日国境を越えて吉弘新兵衛(よしひろしんべえ)方、小田原兵部(おだわらひょうぶ)方、倉成縫殿亮方と連れ立って朽網宿所道場寺へ遁れた。親満は再挙兵について、中国勢や吉弘新兵衛、小田原兵部、倉成縫殿らと相談し、永正一三年(一五一六)一二月二〇日には同心する一万田六郎等は日田へ入った。同二三日には、朽網親満は日田境に近い仲津郡伊良原(いらはら)に宿所を移した。同二九日頃、国東の四人(田原親述(たはらちかのぶ)、田原政定(たはらまささだ)、田原興直などか)に子細を相談したいので伊良原へお越し願いたい趣旨の飛脚を立てている。永正一四年正月三日に四人は伊良原を訪れて、九日まで滞在している。永正一五年八月、親満は豊後国府中の高崎城にて再び挙兵したが、あえなく敗れ筑後へ逃亡した。