津の機能

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 京都平野の港は古代以来、草野から大橋・荒津さらに今井津へとその機能を移している。今井津は周辺の農村集落と異なり都市的な機能を持ち始めた。律院善法寺(りついんぜんぽうじ)の倉敷(くらしき)などの存在が知られている大橋が、今川や祓川の沖積作用の進行による港湾機能の低下にともなう新しい港今井津の繁栄と関連すると考えられる。
 天文二一年(一五五二)一一月の豊前国津濃熊庄名寄帳によると、津濃熊荘(津隈荘(つのくまのしょう))の坪数は総計四一町余りである。その年貢(ねんぐ)二四石を蓑島の籐左衛門尉(ふじざえもんのじょう)が周防国小郡まで搬送し、そのうち一部は山口まで届けている。これの積出港は今井津で、蓑島住人の籐左衛門尉が船主で船を操ったのであろう。